三河内焼白磁の美                 

三川内焼物語

今日に伝える平戸三皿山の歴史と伝統
  下川達彌
1.実った三之丞の執念白磁以前に唐津系古窯も

〈名陶平戸焼完成の地
波佐見と並ぶ長崎県の2大窯業地である三川内は,早岐から佐賀県有田に抜ける国道35号
線の途中にある。もとは東彼杵郡折尾瀬村と呼ばれていたが,今日では佐世保市の行政区画
に入り,地区内は幾つかの町に分かれている。平戸中野に始まった焼き物の火は,やがてこの
三川内地区に拠点を移して大きく開花し,あの純白な磁はだとコバルトブルーの呉須絵を合致
させた,名陶平戸焼を完成させたのである。〈機械化で街並み一変〉緑に囲まれた静かな山あ
いに窯焼きの煙が立ちのぼり,澄みきった清流の音に合わせて聞こえる陶石を砕くゴットンの
響き。それはどこの陶芸の里でもながめられたのどかな情緒だが,ここ三川内地区でも数十年
前までは同じ光景であった。ところが最近では,迫りくる市街化の波によって少しずつその姿を
変えてきている。陶芸の里に通じるデコボコ道の小路は広く舗装され、行き交う車には焼き物会
社の名が記されている。また窯場に入ると,機械化された工程の中で次々と製品が生み出さ
れ,かつのてシンボルだった煙突も姿を消してしまっている。

〈良土を求めて〉
現在三川内地区には国道南側の谷間に,早岐側より三川内山,江永山,木原山の順序で焼き
物の町が活動している。これらの地は寛永20年(1643年)以後に平戸三皿山と称されたとこ
ろで,長い歴史と伝統を今日まで伝え守っている。平戸に上陸して中野に窯を築いた巨関一行
には,白い焼き物(磁器物)を焼きあげたいという強い願いがあった。その子,今村三之丞が良
土を探索して各地を歩き,やがてたどり着いたのがこの三川内なのである。中野窯から移動し
て来た陶工たちと,唐津椎の峯窯(佐賀県伊万里市南波多町)の陶土たちによって,三川内の
窯業は確立していったのである。寛永14年(1637年)に三之丞は, 藩主より『皿山棟梁・代
官』の職名を与えられている。

〈史跡指定の古窯群〉
ところが,三川内地区には白磁焼成以前の製品を出土する古窯がある。これらはいずれも唐
津系の陶器を焼いた窯で,昭和35年(1960年)に長崎県史跡に指定された葭の本窯跡(佐世
保市木原町)をはじめとし,柳の本窯跡(同町内),牛石窯跡(佐世保市新行江町),それに陶
器から磁器焼成に移る過程が確認された木原地蔵平窯(佐世保市木原町)などがある。葭の
本窯跡は木原山から北へ丘一つ越えた所にあって数基の窯跡群があり、竹や雑木で埋もれた
一画の金網で囲まれた遺構と物原からは,天目風の茶わんや簡単な絵を描いた絵唐津のさら
や片口類が出土する。この窯の南にはすぐれた絵唐津の陶片を出す柳の本窯跡があり(窯屋
の発見はまだない),また北にほんの数百メートル離れた佐賀県側には原明窯跡(佐賀県西松
浦郡西有田町)がある。牛石窯跡は三川内駅前から波佐見に抜ける道路の左手にあるが,宅
地造成などによって破壊され,物原や窯壁の一部が現れている。ここでの製品には黄唐津,青
唐津,黒唐津と呼ばれる茶わん,徳利などがあり,なかには蛇蝎手(だかつで)のすばらしいも
のも見られる。


2.名工・五郎七に学べ三之丞,秘伝盗りに旅立ち

〈三之丞の苦悩〉
三川内白磁完成の過程には,今村三之丞と唐津・椎の峰窯の陶工たちの協力があった。ここ
に三之丞の苦労を物語る逸話が残されている。三之丞は納得の行くような焼き物ができあがら
ず苦慮していたところ,当代の名工といわれる高原五郎七が唐津・椎の峰窯に滞在していると
いう話を聞いた。さっそく椎の峰の地に旅立ったのである。椎の峰は文禄3年(1594年)の岸
嶽崩れによる陶工たちの一部が佐賀領に近いこの地に移り住んで唐津焼の火を守り続けてい
たところである。ところが三之丞の到着時には五郎七はこの地を離れて,有田南川原の酒井田
柿工門窯に移っていた後だった。三之丞は椎の峰にしばらく滞在し,この折に福本弥次右工門
や山内長兵衛らを知ったのである。これらの人物はやがて寛永14年(1637年)に三之丞の招
へいによって三川内山にやって来て,長葉山の松浦藩藩窯の製陶所を設ける時に参画してい
る。

〈門外不出,薬の調合術〉
この地で前田徳工門の娘を妻にした三之丞は』目的を果たすべく柿右工門窯へ向かった。柿右
工門窯で五郎七について修業を行ったが,肝心の薬の調合になると決して教えてはくれなかっ
た。時はどこの窯でも秘伝として固く外には漏らさなかったのである。技術情報の入手のむずか
しさは,瀬戸の民吉が三川内では目的を果たさず,佐々市ノ瀬窯で苦心 の末に手に入れたと
いう秘話とも共通する。三之丞は・窯場で妻を働かせ,五郎七が釉薬の調合を行う時に,あら
かじめ五郎七が持ち出した原料の重さを量っておいて,済んでしまったときの残りの量から使用
した分量を探り出させて,染め付けの秘伝を盗みとったという。ここでも「歩間違えば,という危
険を犯しての行為である。三之丞はその後各地の窯場を渡り歩いてますます技をみがき,三川
内焼の基礎を築いて行った。

〈高麗姐の陶技〉
しかし三之丞がこの椎の峰への旅を思い立ったのは,五郎七に会う目的のためばかりではな
かったろう。おそらく岸嶽崩れ以降の唐津陶器の陶技を,そのメッカでじかに見たかったに違い
ない。同時に,三之丞たちが三川内にたどり着いた時,すでにその地で窯を開いていた高麗娼
(こうらいばば)の体験談に触発されるものがあったのかもしれない。高麗媚は今日三川内焼の
一翼を担う中里家一統の祖先として,三川内山の釜山神祠に奉られている。彼女は巨関と同じ
く朝鮮熊川の出身で,朝鮮の役以前に渡来していたとも言われる。陶技に優れていたところが
ら,椎の峰の陶家中里茂右工門の妻となったが,夫の死去によって一子茂右工門を連れて元
和8年(1622年)に,岸嶽崩れの陶工をたよって三川内山の長葉山に開窯している。明治16
年の釜山神祠記によれば,彼女が三川内に来たのは56歳の時で,茂右工門29歳である。さ
らに今村家と相たずさえて三川内焼を生み出していったことが記されている。その円熟した陶技
を間近に見た三之丞は,驚きと同時にはやる気持ちで旅立ったのであろう。


3.努力の結晶黙純白の膚”劇的な天草石,如猿の登場

〈鍋島,有田をしのぐ〉
三川内焼の『磁膚』の白さは,多くの人たちの目を引きつける。その白の輝きは,上に描かれた
呉須絵のすばらしさを,より以上に引き立たせる役割も演じている。デンマークの博物館長を務
めたエミール・ハンノーバーは,著書の中で三川内焼を評して『1750年から1830年の間の日
本磁器の中では白色に光り輝く最高の製品で鍋島や有田の製品はそれには遠くおよばない』と
いうことを記している。色絵の二度焼きと異なり,白磁染め付けで勝負するのが三川内焼であ
る。その製品は,原料の選択から焼き上げまで細心の注意が払われ,まさしく『炎の芸術品』と
呼ぶにふさわしい。この芸術品が,たくさんの窯業関係者の努力の結晶であることは言うまでも
ない。とりわけ,優れた原料を発見し,改良に改良を重ねた伝承の重みが,三川内焼のつやや
かな膚に息づいている。

 〈神さまになった名工〉
寛永11年(1634年)に三之丞が針尾三ツ岳(佐世保市江上町)で網代土を見いだし,さらに天
草陶石を発見するまでの問に,三川内焼の基礎は固まった。翌寛永12年には,三川内きって
の名工といわれる今村彌次兵衛が生まれ,彼がやがて父三之丞の後を受け継ぐのである。松
浦藩主より如猿の号を賜った彌次兵衛については,古記録に『如猿は為に技精妙に達し名声
遠く聞こえて公儀献上品及び諸大名の用命を蒙り,ついに皇室献上品の下命をかたじけなうす
るに至った』(読み下し文は山口哲児『三川内郷土資料』1970年による)とある。また天保13
年(1842年)に藩主熈は,如猿の功績をたたえて三皿山に覚書と和歌2通を与えている。覚書
には『其祖如猿昔年之余慶なる恩沢に浴する三皿山居住氏子と孫々に至る迄敢て之を忘るる
なかれ因て自今陶器満足祈願所として如猿大明神と崇祭可致事』と記され,この覚書通りに三
川内山に如猿大明神として奉られてきた。これが現在の陶祖神社である。父親と母方の血を受
け継いだ(母親は椎の峰の前田徳佐工門の娘である)如猿は,まさに純粋血統書つきの陶工で
あったと言えよう。一説には天草陶石の発見も如猿となっている。寛文2年(1662年)に発見
し,これによって磁器土の成功を収めたという。

〈探し求めていた良石〉
天草陶石については正徳2年(1712年)に木原山の横石藤七兵衛(2代目中里茂右工門の三
男)が,天草から早岐に積み出されてくる砥(と)石を磁器原料として使用したことに始まると言
われている。その結果は非常に良石で,永年探し求めていたものであったところがら,以後この
石は三川内焼の主要な磁器原料となって,あの純白な器を生み出してゆく。今日では三川内は
もちろん,全国各地での磁器焼成の原料として使用されている。原料の網代土と天草石の発
見。これに今村如猿の登場は,三川内焼の歴史の劇的な幕開けを意味し,次に来る栄光への
序曲でもあった。


4.江永古窯に調査メス陶一磁変遷のナゾに挑戦

〈県下初の本格調査〉
昭和49年春,佐世保市文化科学館へ『窯跡夢壊されている』という連絡が飛び込んだ。問題の
場所は平戸三皿山の一つ,江永町にある窯跡。江永古窯の発掘調査を担当した久村貞男氏
によると,現場は治水ダムの工事によって物原(割れた陶磁器,失敗作などを捨てた場所)の
一部は断ち切られ、窯室の遺構が露呈し’ている,といった状況であった。 現場からの出土資
料の中には,江戸時代の白磁,刷毛目類の製品が見られ,関係者の協議で同窯跡の発掘調
査が行われることになった。これが県下で最初の本格的な窯跡発掘となった,佐世保市江永古
窯発掘調査の始まりである。同調査は,従来焼き物愛好家の間で言われてきた,陶器から磁
器への発展過程の“常識”に一考を促す新事実を提供してくれる。

〈百年間も陶器一色?〉
黄金期の三川内焼に踏み込む前に,この江永山を紹介しておく必要があろう。記録では,江永
山は寛永20年(1643年)に藩主の許可を得た今村三之丞が,山口辰次郎を遣わしたのに始
まると記されている。ところが弘化5年(1848年)に,今村家七代目の槌太郎が松浦家老職に
答申した記録に江永山のことがある。『江永山は享保年中までは,染の山立申さず候よし,尤
其以前築立候場所にては御座なく候』とある(読み下文は山口正人『江永山開窯年の上限』『江
永古窯』所収による)。これによれば江永山で染の山(白磁焼成)が始まったのは,享保年中(1
716=1735年)以後となっている。仮にこれが正しいとすれば,寛永20年(1643年)から約
百年の間にわたって,江永山では磁器ではなくて陶器焼成が行われていたと解釈せねばならな
い。

〈疑問抱く人も〉
このような長い期間にわたる江永山の陶器時代に,疑問を抱く人も一部にあった。なぜなら,当
時周辺では白磁染付から,慶安元年(1648年)酒井田柿右工門一族によって赤絵磁器が完
成し,肥前の窯業は磁器一色に塗りつぶされようという時代だったからである。こうした年代的
な疑問はともかく,この地で発見される刷毛目の陶器製品と,磁はだのくすんだ半磁器風な磁
器製品は,陶器から磁器への変遷過程を示す資料と解釈されてきた。また,江永古窯調査で
の事実と資料の実見によって,同一時代のものであると確かめられている佐世保市内の藤原
焼についても,前記今村槌太郎は『白手出来仕らざる前方なれば寛永の頃にも候わん』と答え
ている。これらの資料は磁器焼成以前の古い陶器として扱われてきたのである。発掘調査は昭
和49年10月21日から12月26日までの約2カ月間にわたり,佐世保市教育委員会の主催の
もとに,九州大学岡崎敬氏を団長に,調査主任久村貞男氏によって開始された。この調査の成
果は『江永古窯一江永古窯跡発掘調査報告書一』としてすでに刊行下げを願い出るその画期
的な成果については次回に触れてみたい。


 5.窯の系譜に科学の光伝世品の『新旧』に疑間符

〈三度に及ぶ築窯〉
刷毛目の製品と言えば,まず武雄系の弓野や小田志(武雄市西川登町)などのものを思い浮
かべる。また洗練された現川焼を連想されるかたも多いことだろう。もともと刷毛目は,白い焼
き物ができあがらない時代に,器面を化粧する技法から生まれてきたのである。やがて各種の
刷毛目さばきによって,変化のある文様と,彩絵,象嵌(ぞうがん)と一体になって発達してき
た。ところが,ここ江永の窯跡で発掘された製品は,何の変哲もない分厚い茶わんで,外側に
は波打ったような櫛目が巡っている。この素朴な茶わんが問題になった資料である。調査では,
すでに窯の一部が顔を出していたA窯の下にB窯,さらに下層でC窯が確認され,この場所で三
度にわたって窯が築かれたということを知ることができた。ではどの窯でどのような製品が焼か
れたのであろうか。この問題に対する解答は,窯室の調査と物原(破損した陶磁器,失敗作な
どを捨てた場所)の層位的な発掘によって示される。

〈白磁製品が時代とともに減る〉
発掘の結果,一番古いC窯には刷毛目と白磁製品があり,これが順次新しくなるに従って,白
磁製品が減少する傾向が明らかになった。またその過程では白磁に代わって,半磁器風の製
品が現れている。陶器から磁器へ一従来一つの線で結ばれているはずの流れは,ここでは複
雑に入り組んだ状況を示している。伝世品を基礎に組み立てられた『古いもの』『新しいもの』の
尺度では片付かなくなったのである。ようやく到達した白磁焼成から,なぜ土物(陶器)に転じた
のだろうか。当然起こる疑問だが,それに対する明確な答えは現状ではない。ただし,容器の
世界では,その用途に応じて素材が求められるという事実が,この疑問を解く一つのヒントにな
るだろう。たとえば『木原土瓶(びん)』と呼ばれる製品がそれである。昭和初期まで盛んに作ら
れたこの土瓶は,薬を煎(せん)じるのに重宝であったという。

〈唐津系との関連〉
江永から山一つ越えた谷に開けているのが木原の陶器山である。この地区には葭の本,柳の
本などの古い唐津系の窯跡があるが,その後に続く地蔵平窯の調査は,江永までの空白を埋
める成果を挙げた。その窯跡は便宜上,東,西窯と名づけられ,東窯では新窯と旧窯の2つが
発見された。それと並 行して行われた物原の調査では,6つの層の堆積が認められた。最下
層の第6層は陶器(土物)のみの層であり,第5層は陶器と磁器の混在であ?たという(倉田芳
郎他『木原地蔵平窯跡の発掘調査』(1978)。6,5層では柳の本窯で見られる溝縁口縁の皿
類が多く,地理的に近いところがら関係が類推される資料であった。

〈いくつかの証拠品〉
江永,地蔵平の発掘調査の大きな収穫ぼ、三川内最古の唐津系古窯群からその後の白磁製
品,今日の三川内までの変遷過程を理解する幾つかの“証拠品”が得られたことだろう。なかで
も,有田天狗谷B・C窯などの影響を受けたと思われる雲龍文見込荒磯くずしの染付鉢(はち)
などの発見は,これまでこれらの製品が古伊万里製品だけと思われていただけに,三川内の系
譜に新たなページを開いた意義を持つ。ばく然とした三川内焼の過去に,科学の光が当てられ
たといってよい。


6.童子遊ぶ黙メルヘン白い磁膚に流麗なブルー

〈童唄が聞こえる〉
三川内山バス停留所の上手に中里時夫氏の家がある。右手の座敷へ上がると焼き上がった
ばかりのさらや茶わんがあり,純白の磁膚に発色も鮮やかな呉須絵が目を引きつける。松の木
の下で無心に遊ぶ中国の子供を描いたこれが,三川内焼を代表する『唐子焼』である。中里時
夫氏は2代目雅松として,この手がき唐子焼の伝統を守る県無形文化財保持者である。話の
間にも次から次へと手慣れた筆さばきによって,可愛らしい中国の子供が生まれてくる。それは
今日の粗悪な印刷手(印刷方式)唐子とは異なった,まさに温かい血の通った童子の出現と言
ってよい。童(わらべ)唄が聞こえてきそうなメルヘンの世界である。

〈考案は片山尚俊?〉
この唐子絵の染め付けされた焼き物を,一般に唐子焼と呼んでいる。唐子焼の始まりについて
は,中島浩気『肥前陶器史考』に平戸松浦藩の御用絵師である片山尚景の舎弟,片山尚俊が
考案したと記され・それによると『寛政年間,田中与兵衛尚俊は藩用品の染付に,彼の松唐児
絵を創案した』という(馬場強『三川内焼と平戸藩の御用絵師』)。ところが馬場強氏は,これが
間違いであることを指摘している。即ちこの尚俊は元禄11年(1698年)の窯たき用の薪(ま
き)を得るために,松浦家へ山林の下賜を願い出た記録の中に,今村弥治兵衛(如猿)らと名を
連ねているのである。元禄年中に三川内皿山の重鎮の一人として活躍しているのであるから・
当時彼はかなりの年配であったと思われる。ところが前掲の『肥前陶器史考』によれば寛政年
間(1789−1800年)となっている。この間にはおよそ百年の開きがあり,尚俊の兄で ある尚
景が寛永5年(1628年)の生まれであることからすれば約160年になる。いかに長寿であると
仮定してみても,納得のいく年号ではない。年号から推すと・おそらく寛政は年号の間違いであ
ろう。また寛政のころの三川内では,既に清朝の影響を受けた焼き物が盛んに製作された時代
である。唐子絵の源流は中国。明代の焼き物に描かれていることから,比較的早い時期に三川
内に根をおろした染め付け絵であろう。

〈七五三は喜びの数〉
唐子茶わんに描かれた唐子の数で7人,5人,3人唐子と呼ばれ,江戸時代には藩の御止(お
とめ)焼として・その使用については厳しく取り締まられたという。ところが三川内焼の古陶磁に
は,必ずしもこの数の唐子だけに限定されてはいないで・10人・あるいは12人というものもあ
る。7,5,3が最も多く使われていることは,この数字に喜びの意味があるためだろう。明治以
降,この数以外の唐子を描いた製品はない。また御止焼としてその図柄を厳しく守ったといわれ
ているが,唐子はなにも三川内藩窯のみのものではなく,木原・早岐・あるいは長崎亀山,有田
などでも製作されている。ただ,三川内焼のように多量には生産されなかった。特有の白い磁
膚にしみる鮮やかなブルー。御用絵師の指導による狩野派流の流麗な筆致。どこかユーモラス
で親しみ深い唐子の世界は、やはり三川内ならではのものであろう。


7.爪紙一重の美 繊細,精密な炎の魔術

〈細工ものの白眉〉
粘土細工の経験なら,おそらくだれにでもあるはずだ。水の量が多くても,また少なくてもうまく
いかないものである。形を作り上げたものがしばらくの間に崩れたり・キ裂が走ったりする。焼き
物製作でこの粘土(陶土)を自由にこなして,技術の枠に挑んだ作品がある。三川内焼の細工
と薄手白磁は,その白眉(び)と言えよう。三川内焼の細工には,花びんや蓋(ふた)物のつまみ
に部分的に使用したものと,細工が主体となった製品がある・格調高い呉須絵が描かれた花幌
の両耳が・勢いよく天に昇る竜の細工であった.り,鯉や獅子であったりする。目やウロコ,ある
いはたてがみの一本一本にまで細心の注意が払われている。時として,微妙な細工や彫りの良
声が上柚(うわぐすり)のために埋まってしまうのを惜しんで,無粕の素膚のまま残している製品
挙えある。

〈宮中,献上品の数々〉
寛文年間を経て元禄12年(1699年)には,禁裡(宮中)御用品の製作を命ぜられ,このころに
は すでに三川内焼を代表するものとして,染め付け類のほかにひねり物(細工物)が脚光を浴
びている。これ以後,三川内の細工師には数々の名工が登場する。その中には幕末から明治
にかけての今村良作,明治23年に透彫製品を皇室に献上した口石丈之助とその孫の大八郎
や,明治33年の皇太子殿下御成婚の大典に透彫一対を製作献上した福本源七等がいる。こ
の細工技術は綿々として受け継がれてきて,今日では佐世保市無形文化財保持煮の福本数
市,国の伝統工芸士口石長三氏らによって
守られている。

〈さながらタマゴの殼〉
薄手白磁は天保8年(1837年)に陶工池田安次郎が初めて製作したという。純白な磁器で,し
かもその厚みは玉子の殻のようであったところがら『卵殻手』と呼ばれることもあった。透き通る
ような薄いこれらの器は,まったく驚異であり,人間の力と炎の魔術が結集して生み出した傑作
と言って過言ではない。文久2年(1862年)に32歳で亡くなった中里丑太郎は,この薄手白磁
の名工として三川内に語り継がれている。

〈明治に磁器製の義歯〉
今日,三川内山の中里末太郎氏は県無形文化財保持者として,この薄手白磁の技術を守って
いる。朝顔形のはちに山水の彫りを入れた氏の作品は,本当に紙一重というところで完成され
ている。手に持つとプラスチックよりも軽く,太陽にかざしてみると,その光が器を通してくる。力
を入れると砕けてしまいそうなこの器が,本当に焼き物なのだろうかと思うのは私ひとりではあ
るまい。薄手のよさは白の美しさと彫りと,それに器形のすばらしさによって三川内焼の気品の
高さを誇っている。この精密な細工技術を応用して藤本熊次郎が明治20年に磁器製の義歯を
創作したことなどは,ごく少数の人たちにしか知られていない。


8.伝統技術により磨き 意匠伝習所に逸材集結

〈明治期,停滞の危機〉
三川内山の某家に『染付鴛鴦文大皿』がある。おしどりをかたどったうつわに,三川内独特のダ
ミをきかせたこの皿は,明治時代に入ってからの三川内焼をささえた中里三猿の作品である。
江戸時代には藩の手厚い保護によって栄えてきた三川内焼も,明治時代になるとその経営が
苦しくなってきた。それでも明治10年頃までには何とか面目を保っていたが,20年を過ぎる頃
からは焼物の質が低下して,粗悪品が出回るようになる。そこで伝統の技術の上に新しい図案
をとり入れて, 製品の向上と進歩発展に努力したのが豊島政治と前記の中里三猿である。

〈後継者育成に腐心〉
豊島政治は嘉永5年(1852年)に三川内に生まれ,明治7年に叔父の古川運吉の仕事を受け
継いで活躍する。明治18年には三川内山旧代官屋敷跡に,商店を開設して製造から販売まで
手がけ,東京や横浜方面にまで販路を拡張している。また明治32年には三川内,江永,木原
の三皿山を併せて三川内陶磁器意匠伝習所を開き,所長として三川内焼の発展に貢献した。
夏には東京美術学校教授嶋田住臭,有田工業学校教授の徳見知敬を招へいして生徒たちの
技術向上を図った。ここの卒業生は現在三川内焼をささえる重鎮として活躍している人たちが
多い。一方では村会を経て東彼杵郡郡会議員として地方行政のために尽くし,大正8年に69歳
でなくなった。その業績をたたえる記念碑は昭和44年に三川内山に建立されている。

〈陶画の名人・三猿〉
中里三猿は本名巳午太。三猿は明治44年に松浦伯爵より賜った号である。平戸藩御用絵師
片山貫道に次いで,最後の御用絵師となった田中南文について陶画を修練した。意匠伝習所
開設とともに陶画教師となり,明治39年の村立工業補習学校創設以後も教師として三川内焼
の伝統を守り,後輩を指導する。明治33年の皇太子御成婚の大典には,一年余の歳月をかけ
た巳午太の作品,香櫨一対を献納している。今日三猿銘の作品には染付絵の陶画はもとより,
浮上げやひねり細工のものまで見られる。そのいずれを取り上げても他の追随を許さない近代
稀有の名工である。今村豊寿も三川内焼の陶画の伝統を守った一人であろう。彼もまた片山貫
道のもとで絵を学び,師より豊寿斉長之の画号を授かる。幼名は十代次といい,小さい頃から
ずば抜けた画才をもっていたという。三川内焼としてはあまり知られていない赤絵の製品に,綿
密な筆致で絵付けを行っているものがあるし,佐世保市内の某家所蔵の6曲屏風は彼の傑作
であり,単なる陶画師ではなかった豊寿の技量を見せている。意匠伝習所に集結したこれらの
人物は,次回に述べる製型師たちとともに三川内焼の火を燃え立たせるもとになった。

9.途絶えさせるな「伝統』地元での人材養成が急務

〈技術プラス優れた原料〉
三川内焼の美しさの一つには姿,形の良さがある。江戸時代にあっては器の保護のもとに,原
料 の精選と技術の向上を目指してきたが,その伝統が今もなお三川内焼製造に生かされ,ま
た守られてきている。もちろん,器形の良さは優れた技術によって生み出されるが,その技術も
良質の原料を使用してこそ生きると言えよう。三川内での原料の歴史は古い。唐津系の陶器を
焼いたころに使用した地区内の吉ノ田,相木場の陶土があるが,寛永期に入ってからの三ツ岳
(佐世保市江上町)の石と,天草陶石の調合に.よって完成された。この精製調合された素地を
良く練り固め,ロクロにかけて形を作り上げてから素焼窯に入れられる。

〈名工,池田直之助〉
葭製型師については歴代名工を生み出しているが,明治年間に活躍した池田直之助の名前を
上げなければならない。池田家の先祖は,もともと領内の相浦(同市相浦)に住んでいたが,伝
九郎と言う男が如猿の娘をめとってから三川内に住むことになり,代々製陶業に従事してきた
家柄である。直之助は,この池田家の傍系の子孫で,明治30年から旧平戸城下鶴峯邸の御
庭焼に呼ばれている。明治33年には,三川内焼近代窯業発展の基礎を築いた三川内意匠伝
習所の製型科教師として後進の指導育成に当たってきた。また,その製型技術は皇室への献
上品を始めとして,内外の博覧会などの出品作品に残されている。

〈村民一体で伝統継承〉
平戸松浦藩の領内に始まった平戸三皿山は,明治維新以後もその伝統の火を絶やさないため
に私財を投じて,あるいは村民一体となって努力してきた。明治27年には製品の向上と販路の
拡張などを目的に磁器製造組合を設立し,一方,豊島政治の意匠伝習所はやがて工業補習学
校から陶磁器徒弟養成所と改称されるに至っている。今日では昭和45年に落成した三川内陶
磁器文化センターが三川内窯業の中心となって活躍しているが,後継者の指導育成について
は隣接する有田工業高が多くの若い人々を窯業界に送り出していることを考えると,この佐世
保市三川内地区の伝統が途絶えていることは誠に残念でならない。

く残したい陶芸の里〉
長崎県立美術博物館所蔵品の中に『三川内焼四季花模様花瓶』がある。純白の磁はだに浴衣
地を思わせるような染め付けの図柄は,明治以降に三川内焼が新しいデザインに取り組んだ
証拠の品である。びん底の『折尾瀬養成所製』の呉須銘は,前記の陶磁器徒弟養成所で製作
された製品であることを示している。当時の養成所の名工たち,中里浮白,古川米之丞らの型
造りに,中里三猿らの努力の結晶が記されている。最近の三川内地区は九州新幹線の新佐世
保駅の候補地として騒がれている。これを一つの契機として三川内地区がより一層発展するこ
とは大変喜ばしいことであるが,反面この静かなたたずまいの陶芸の里を,このまま少しでも残
しておきたいとする気持ちは私だけではあるまい。
 ※本稿は昭和54年1月から11月まで,西日本新聞に35回の連載を行った「土と炎の里」の
中から,三川内焼の項を抜粋・修正したものである。その後,今日までの三川内焼の発展から
すると,各所に資料不足は隠しようもないが,これもまた三川内焼の歴史の流れとして,あえて
補筆を行わずにほぼ原文のまま登載した。連載にあたってお世話をいただいた,当時西日本
新聞長崎支局の木庭健太郎氏は現在国会議員として活躍されている。また文中に紹介させて
いただいた三川内焼の名陶工中里末太郎(陽山),口石長三,福本数市氏や,拙稿にコラムを
寄せていただいた当時の三川内陶磁器文化センターの金氏一公氏はすでに鬼籍に入られてい
る。これらの方々を始めとして,数多くの方々の御援助によって,私の三川内焼の研究は進め
られてきた。今回の展覧会の開催にあたり,これら多くの方々に深く感謝の意を表して捧げた
い。

長崎県立美術博物館学芸課長)
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