平戸松浦藩の歴史編


第一章 松浦党と平戸松浦氏

 

平戸松浦氏の系譜探究を抜きにしては、平戸焼の全貌は理解し難い。

中世の倭冠時代、南蛮・紅毛貿易時代から、私的にも、公的にも、朝鮮、中国、

東南アジア、オランダなどの焼物に接する機会に恵まれた代々の平戸松浦氏は、

文禄・慶長の役を契機として、初めて平戸焼の発生をみるのである。

 

それで鎌倉・室町期の戦乱の中を生きのび、豊臣期で大名として公認された

平戸松浦領主の系譜と文禄・慶長の役における動静に焦点を絞って、焼物発生の

関係などを考察してみよう。

 

 

第一節 松浦党の始祖

 

嵯峨源氏の末流といわれる源久(みなもとのひさし)は、延久元年(一〇六九)

撮津国渡辺荘より西下し、肥前国下松浦志佐郷今福に上陸して居城の梶谷城

(長崎県松浦市今福町)を築城した。

 

そして宇野御厨検校(神や朝廷に供物を貢納する

地域の左官)・検非違使(今の裁判官や警察官のような役職)の要職につき、松浦郡、

彼杵郡、壱岐を治める程の権力者となり、初めて地名に因んで松浦という姓を名乗っ

た。

 

これが松浦党の始祖といわれる由縁となった一松浦家世伝。古代でいう末羅の国

(古事記)が、のちに松浦の文字をあてたのであろう。

 

これに対し、寛仁二年(一〇一九)ツングース系の女真族といわれる乃伊の賊が

松浦郡を侵攻したとき、肥前国司を退官し松浦に土着していた源知(みなもとのし

)が、水軍を率いて撃退した記録が藤原実資の日記「小右記」にあるので、川頭

芳雄「異説松浦党のおこり」は源知を始祖と主張されているが、何れも確証はない。

 

また近世の松浦藩が作成した松浦一族略系図によると、源久の次男持(たもつ)

は波多姓を名乗り初代岸岳城主になっている。

 

ところが佐賀県東松浦郡呼子町加部島にある田島神社の石材鳥居には「天元三年

県令波多氏修造之しという銘刻がある。渡来帰化人らしく身分を唐名で「県令」と

刻んだ事実は、源久が西下した延久元年(一〇六九)より約九十年前に波多氏の松

浦在住を証明するものである。

 

岸岳窯群を開窯した波多氏の祖先に関しても興味ある問題を秘めている。

 

 

第二節 松浦党の発展

 

松浦久の子孫は、松浦郡と呼ばれた上松浦(佐賀県東と西松浦郡)と下松浦(長

崎県北と南松浦郡)及び壱岐の地域に本拠を置き、血縁関係のない在地領主と一撰

契諾書を結び(青方文書・山代文書)、松浦一族又は松浦党と呼ばれる水軍的性格を

持った武士集団を形成し、海上貿易の利により経済的にそれぞれ独立したのである。

 

そして鎌倉期から室町・戦国期にかけて、松浦党は南九州や瀬戸内海沿岸の水軍

或いは浪人達と合流して朝鮮半島、中国大陸を侵攻し、海賊的行動による掠奪は、

相手国から倭憲といわれた。

 

貞応二年(一二二二)「高麗史」に「倭全州に冠す」という倭窟の最初の記録がある。

 

また嘉禄二年(一二二六)「藤原定家日記」に「松浦党という鎮西の凶党等が数十

艘の兵船でかの国の列島に行って合戦し、民家を焼き資材をかすめ取った。行った

者の半分は殺されたが、残りのものは銀器等を盗んで帰って来だそうである」と記

述されている。

 

しかし倭冠は十五世紀前半から蛮勇を捨て、一時的ながら通商貿易者へと変身し

ていく。このように流れる歴史のなかの松浦党の遠くは、源平壇の浦合戦(二八五)、

憲(一二七四〜一二八一)、南北朝の動乱(一三二四〜一三五一)にも参加して、

州の諸豪族と共に奮戦をしている(石志文書・山代文書)

 

 

第三節 平戸松浦氏の成立

 

松浦久の長男直が知行していた小値賀島(長崎県北松浦郡小値賀町)は、承久元

年(一二一九)直の孫峯持(みねたもつ)に地頭職が譲られた(青方文書)。そして

嘉禄元年(一二二五)峯持は始めて小値賀島より平戸島に移り館山(松浦資料館裏

)に居城を構築し、ここを拠点として平戸松浦氏としての基礎を固めたのである。

 

しかし松浦党もときには分裂抗争し、ときには団結し、親戚兄弟間でも利害相反

して不和を生じ、しばしば紛争を起こしている。これらの抗争を停止させ、領国統一

を達成した入物が松浦隆信(道可)である。

 

天文十二年(一五四三)から主流松浦親の拠城飯盛城(佐世保市相浦町一を執拗

に攻撃を重ねて遂に滅亡させ、松浦一族の主導権を本家に替り掌握し、戦国大名

への軌道を走ったのである。

 

 

第二章 松浦隆信の繁栄

 

第一節 隆信の海外貿易

 

前述したように嫡流松浦氏を滅亡させ、平戸松浦氏を戦国大名からさらに近世大

名へと確立させたのは、松浦隆信(道可)である。

隆信は中国やポルトガル貿易船を鹿児島港から平戸に誘致するため、明の海賊商

人工⊥直と親交を結ぶ.天文十年(一五四一)五島福江を根拠地として活躍していた

王直に、勝尾岳自狐山屋敷を与えた。

 

ここを本拠地として王直は、常時三千人に及

ぶ部下を従え、港には大型ジャンクがひしめき、「五峰船主」とよばれる程の威力を

示した。そして中国、安南、シャム、マラッカ、呂宋などに侵攻し、海賊型貿易で

巨富を得た。

 

そのため平戸港には中国船・南蛮船の来航が相つぎ、唐や南蛮の珍物取引のため

京都・堺らの諸国の商人が集結し西の都のように繁盛したのである一深江記一。

中国産生糸・絹織物・鉄砲・火薬の輸入と銀の輸出が貿易晶の主力であった。

そして天文十九年(一五五〇)ポルトガル船入港と宣教師フランシスコ.ザビエルの

来島により、平戸は貿易とキリスト教布教の中心地となる。

 

この対外貿易の巨利が松浦藩の財政に大きく寄与し、表面的には宣教師らを優遇した。

しかし隆信の目的は鉄砲と火薬と大砲を輸入させ、それを製造して、王直と組むことが、

西国覇者への野望の道と信じていた。


ところが弘治三年(一五五七)王直は明国の官吏にだまされ一時帰国したが刑殺

される。永禄十一年(一五六八)隆信は嫡子鎮信(法印)に家督を譲り、王直を偲び

大唐屋敷に隠居したが、慶長四年(一五九八)没するまで大名というより名貿易家

として藩主鎮信を指導した。

 

天正八年(一五八〇)にカンボシャ船、天正十二年(一五八四)にスペイン船が入港する

が貿易開始に至るまでの効果は無かったのである。

 

鎮信は気質も才略も父の隆信に似ていて、松浦家の貿易主義をよく踏襲した。そ

れが慶長十四年(一六〇九)オランダ商館、慶長十八年(一六ニニ)英国商館が平戸

に設置される縁となった。

 

 

第二節 平戸松浦領の確立

 

曲豆臣秀吉は天正十四年(一五八六)九州征討動員令の発布前に、松浦鎮信(法印)、

大村純忠、有馬晴信、深堀純賢、五島純文、鍋島直茂、波多親らを帰服させた{

村家覚書)。服従しない筑前の秋月種実と薩摩の島津義久征討のため、天正十五年

〔一五八七)秀吉自ら大軍を率いて下向し、九州諸大名の援軍と合流してかれらを降伏

させ、九州平定の野望を達成した。

 

その帰路、明や朝鮮の史料にある「十里松」といわれる筥崎松原の筥崎八幡宮宝

殿(福岡市東区箱崎一を宿陣として、九州征討の論功行賞とキリシタン禁教令を発

布したのである。その時、松浦隆信・鎮信父子に対し、抜群の戦功により平戸旧領

が安堵された。

 

この箱崎が筆者のふるさとで、征討に従軍した千利休、津田宗及らの茶人が秀吉

に献茶したと伝えられる燈寵堂は今も近くに所在している(筑前国続風土記)


下表は秀吉が箱崎滞在中に行った九州統括の主要な国割りであるが、大陸出兵の

企図を考慮した配置を窺い知ることができる(筑前戦国史)。

 

領主

居城

松浦隆信

肥前一北松浦・壱岐)

平戸

大村嘉前

肥前一大村)

大村三城

波多親

肥前(東松浦・西松浦)

唐津

鍋島直茂

肥前(北高來郡・養父郡)

諌早

竜造寺政家

肥前(佐賀・小城・神埼・三根・藤津・杵島・神代)

佐賀

有馬晴信

肥前(南高來郡)

島原

五島純玄

肥前(五島・南松浦)

深江

宗義智

肥前(対馬)

厳原

相良長毎

玖麻葦北三郡

人吉

島津義久

薩摩

隼人富隅城

秋月種長

日向一児湯郡)

材部


第三章 文禄・慶長の役とやきもの

 

文禄・慶長の役(一五九二〜一五九八)が「やきもの戦争」とも呼ばれる理由は、

出陣した諸武将によって朝鮮半島からもたらされた茶道具と、帯同した朝鮮陶工達

による窯業発生に起因すると言われている。

 

ところで戦国武将がわび・さびの茶道という特異な世界の中で焼物に注目したの

は、茶道具という物質的なものが介在したことに始まる。戦国大名は唐物茶入れと

高麗茶碗を高く評価して、それらを獲得できる大陸への侵攻は、魅力的な領土の領

有に結びつく契機と判断したことは否定できない。

 

さて豊臣秀吉が茶の湯の世界に大きく嵌りこんだ因縁とは、天正六年(一五七八)

織田信長より始めて茶会開催の許可を与えられたことである。当時、名物茶道具の

下賜や茶会開催の許可獲得が、金銀財宝や領地を頂くより優る恩賞であり、ひとか

どの武士と認められるる証明になったからである。

 

そのため秀吉は、信長の没後天下の三宗匠といわれた津田宗及、今井宗久、千利

休の三人をそれぞれ三千石で召し抱え、ひときわ茶道政治の普及に努めた。かれの

脳裏には天下統一への野望達成と並行して、すでに明国制覇への設計ができつつ

あったのであろう。

 

このような視点から秀吉の最後の舞台となった文禄・慶長の役の平戸松浦鎮信

一法印)の動静に焦点を絞りながら、「やきもの戦争」の歴史的背景について考察し

てみよう。

 

 

第一節 名護屋城と茶の湯

 

天正十九年(一五九一)豊臣秀吉は、朝鮮出兵の作戦会議に平戸領主松浦鎮信と対馬

領主宗義智を大阪に招き、兵姑基地として渡海路の対馬には、軍監毛利高政に命じて

撃方山城と清水山城を、壱岐には松浦鎮信に命じて勝本城を急造させた。

 

大本営は浅野長政、黒田長政、加藤清正、小西行長らの大名に命じて、名護屋越前守

経述(波多三河守の家臣)の居城であった勝雄岳城を改築させて、文禄元年(一五九二)

名護屋城(佐賀県東松浦郡鎮西町)を完成させたのである。

 

その名護屋城の規模は突貫工事とはいえ大阪城にも匹敵するほどで、絢燗豪華な

五層七重の天守閣と城下町を描いた狩野光信筆による「名護屋城屏風絵」が


佐賀県立博物館に所蔵されている。

 

この本城周辺の三粁に及ぶ丘陵地には、百六十人余の全国大名の陣所が設けられ

た。そのなかの豊臣秀保(秀吉の異父弟の子)の陣所跡から、明染付皿と碗、李朝

白磁皿と碗、瀬戸天目茶碗、美濃灰紬皿、備前揺鉢などの陶磁器破片が山山土してい

る。文禄元年から慶長三年の七年間に限られる遺跡の出土品だから、貴重な資料と

して興味深い(大橋康二「十七世紀における伊万里の窯跡とその製品」)

 

現在の名護屋城跡には、昔の面影を残す構築物はなく、野面積(のづら)といわ

れる何万個の石垣が残るのみである。

 

しかし大陸進攻の野望に燃えた秀吉の夢の跡だけあって、本丸、二の丸、三の丸、

山里丸などから成る半山城は、五層七重の天守閣や櫓、書院、数寄屋、楼門を構え

た雄大なものであった。この山里丸には、秀吉の愛人広沢の局が秀吉の死後、仏門

に入りその霊をとむらった広沢寺が所在している。

 

また秀吉の居館、謁見所、お馬屋敷、女官屋敷、黄金と草庵の茶室などがあって、秀吉

はこの茶室でみずから茶会を開き、諸大名や兵姑商人達の苦労をねぎらったのである。

 

文禄元年(一五九二)博多の豪商神屋宗湛は、大阪城から移された黄金の茶室開

きに招待され、金づくめの茶室の模様を「宗湛日記」に記述している。また同年に

草庵の茶室開きには、鎮信の父松浦隆信を招き、平戸の留守部隊を預かる労苦をね

ぎらつている。

 

この豪華な名護屋城は戦役後には解体されて、その資材を使用したと伝えられる

松浦藩の日の岳城、寺沢藩の唐津城、伊達藩の青葉城大手門は今は消失して、

平戸市瑞雲寺の山門だけがその名残りを留めている。

 

 

第二節 文禄の役のなかの鎮信

 

松浦鎮信・信実の兄弟は、三千人(鉄砲七百挺)に及ぶ兵員を動員し、小西行長

の第一軍に編入されて、宗義智、有馬晴信、大村喜前、五島純文らの諸大名と共に

文禄元年(一五九二)四月釜山港に上陸した。

 

直ちに釜山浦、東莱、梁山の各城塞を攻略し、北進に北進を続けて順安で後発し

た鎮信の長男松浦久信と合流する。そして鎮信父子は順安・平壌地域の守備を担当

した。

第二軍の加藤清正、鍋島直茂、相良長毎らの軍勢は小西軍より後発したが、.連戦

連勝の勢いに乗り、岸母系古唐津と関係が深いといわれる北鮮窯業地の明州、鏡城、

会寧までも進攻した。

 

しかし文禄二年(一五九三)明国救援軍の猛反撃により、日本軍は平壌や京城の

最前線から撤退し、慶尚道南部沿岸地域にまでも後退した。その沿岸地域には「倭

城しといわれる城塞を築き、ここで休戦状態のまま越年を重ねたのである。この主

な倭城は、西生浦城、束菜城、釜山城、金海竹島城、熊川城などである(長正統「九

州と日本社会の形成・朝鮮出兵」)

 

小西行長は熊川城の主城を警備し、松浦鎮信は能一川城の端城を四年間に一度も平

戸に帰還することなく駐留守備したのである。これが松浦藩主と熊川窯業地の陶工らと

出合う機縁となり、密接な信頼関係も芽生え、平戸島渡来の要因になったと考えられる

(明治聖徳記念学会紀要「南鮮沿海の築城群」)

 

 

第三節 慶長の役のなかの鎮信

 

慶長元年(一五九六)大阪城における明使楊方享・沈惟敬ちの和平交渉が決裂し

て、慶長二年(一五九七)第二次出兵の慶長の役が再開されたのである。

再編成された日本軍の先鋒隊として、小西行長軍は豆毛滴に、加藤清正軍は西生

浦に上陸する。このとき、慶尚道沿岸を守備していた松浦鎮信は、残留の西国大名

らと共に上陸援護に当った。

 

上陸部隊は文禄の役で築いた倭城を再修築して、新たに蔚山城(加藤清正・浅野

幸長)、昌原城一鍋島直茂)、梁山城・固城城(立花宗茂・高橋元種)、氾川城一島津

義弘)、南海島船所里城(宗義智)、順天城(小西行長)を築城し、東端の蔚山城か

ら西端の順天城までの二百数十粁に及ぶ海岸線を防備した。

 

小西軍に属した松浦鎮信・久信父子は順天城の守備を担当したので、熊川陶工ら

の帯同は文禄の役中とする説もある(明治聖徳記念学会紀要「南鮮沿海の築城群」)

また「松浦法印鎮信朝鮮七ヶ年間陣中日記之抄」に「手勢平戸を出陣の時節は、

三千人ないしかど、或いは病死す、依って平戸に手当ての人数又は朝鮮を望む者ど

も追々渡海しければ、雑兵帰陣まで既に七千二百余人にふえるというも、三千人の

御軍配なれば、其の意に応ず」と記述されている(平戸郷土誌)

 

この日記の内容は、兵員、武器、糧秣の補給輸送、陶工らの技術者や戦朴品の輸

送が戦役中でも朝鮮半島と平戸島の間は容易であったことを示唆し、前述の文禄の

役渡来説の可能性を全く否定できない。佐賀藩鍋島直茂・勝茂父子は、昌原城、金海

竹島城、熊川城らを守備した関係から、それら窯業地陶工の渡来が、佐賀藩領内の

窯業発生の源流となったのである一今泉吉郎「朝鮮の役における鍋島直茂公の行動

と陶磁器との関係。

 

 

第四節 秀吉の病死と半島脱出

 

慶長二年末から慶長三年にかけては、蔚山城の戦闘以外には特に目立った大きな

戦はなく、一進一退の戦状で南鮮沿岸地帯の警備に日本軍は当った。

慶長三年(一五九八)八月秀吉は伏見城で病死し、七年間の長い戦役に終止符が

うたれた。

 

「露とをち、露ときえにしわが身かな、なにわの事は夢のゆめ」という辞世の和歌

が残っているが、秀吉のすべてを象徴した歌かも知れない(木下家文書)。

 

而して慶長三年の暮れに帰還命令が在鮮全軍に通達されたが、すでに釜山浦から

順天沖に至る南海全域は李舜臣水軍により退路を封鎖されて、諸大名の撤兵脱出は

至難を極めて苦戦の連続であった。

 

島津藩「征韓録しには、「諸将各々釜山浦に至りて会陣し、良辰を択てともづなを

解かんと相約せし甲斐もなく、剰順逆風さえかえりみず、われ先にと帆を掲げし心

の程こそ方見けれ」と記述されて、当時の脱出状況の惨憤さを物語っている。

 

退路を遮断された松浦鎮信は小西軍と共に順天の新城浦から島津義弘軍の救援に

より、やっと夜陰に乗じて外洋に脱出し、慶長三年十一月、始めて、夢にまでみた

平戸にやっと帰還したのである。

 

しかしながら南海沿岸の各地には、積み残された多数の日本軍兵員を見捨てて、六万

以上といわれる捕虜を諸大名が優先的に強制連行したという今までの諸説については、

とにかくも検討の余地があろう。


第四章 西国大名領の窯業誕生

 

現在までの定説は、文禄・慶長の役に出陣した西国諸大名領内に発生した窯業は、

帰国に連行帯同した朝鮮陶工達に起因する「李朝陶工の連行捕虜説」と多くはきめ

つけている。

 

即ち毛利輝元は萩焼(萩市・長門市)、細川忠興は上野焼(北九州市・福岡県田川

)、黒田長政は高取焼(直方市)、鍋島直茂は有田焼(佐賀県西松浦郡)、松浦鎮信

は平戸焼(平戸市)、大村喜前は波佐見焼(長崎県波佐見町)、相良長毎は一勝地焼

(人吉市)、島津義弘は薩摩焼(鹿児島県帖佐村)を開窯し、寺沢広高は唐津焼(佐

賀県東松浦郡一を復興させたと言われている。

 

その根拠となった主な資料は、「山村家伝書」、「先祖由来」「豊前以来由緒覚し、

「高取歴代記録」「高取家文書」、「金ヶ江清五兵衛口達覚し「山本神右衛門重澄譜」、

「折尾瀬村三河内今村甚三郎蔵書写」「三河内皿山今村三之丞家伝」、「大村藩年譜」、

「星山家系譜」「立野並苗代川焼物由来記」などと思われるが、現在まで確証づける史料

は発見されていない。

 

さて浅川伯教「朝鮮陶磁文化史資料」は「諸将は各地に於いて茶碗を探し、陣中

でも茶をたてるもの、陶工をつれ帰る者多し。古田織部の好みによる御所丸、割高

台の如き従来と異る茶碗も招来された。石田三成、安国寺恵壇の二人の茶人は秀吉

の親任を受け奉行となり、釜山と京城間を往復する」と記載している。

 

それで陶工渡来の時期は各大名によりそれぞれ異なり、優勢のなかで展開された

文禄の役では余裕もあり、陶工らの技術者帯同の可能性は十分にあり得る。

 

しかしその反面、慶長の役では形勢が逆転し、劣勢のなかでの脱出は困窮を極め

た。加えて秀吉の急死により将兵の望郷の念は激しく暴露し、戦意喪失のまま、

南海沿岸各地に積みのこされた多数の兵員を見捨てて、日本軍でさえ入手困難となっ

た船舶を集め、六万以上といわれる捕虜の輸送は不可能と断定せざるを得ない。

 

このような事情から推考すれば、日本軍の雑役、通訳、道案内の使役として協力

した人達は、利敵行為者として戦後の処罰を恐れたり、戦渦により朝鮮半島の荒廃

と飢餓を逃れるため、自らの意志で新天地を求めて、小さな漁船に乗り込み、日本

軍撤退船の後を追跡しながら九州沿岸各地に上陸或は漂着したという「李朝陶工の

逃避難民説」を筆者は提唱したい。


そして避難民達は、上陸又は漂着した地点に居住したのであろうが、漸次居住地

を与えられ、保護収容されたと思われる。

 

この集団の中から陶工、活版工、鍛冶工、織物工、染物工、紙漉工らの技術老は

物色選出されて、諸大名領の産業振興に寄与したのである。とくに陶工たちは単な

る捕虜ではなく、士分待遇などの破格の保護を受けて、西国大名領内での窯業成立

の原動力となった。

 

而して渦巻く歴史の流れは早く、慶長五年(一六○○)関ヶ原の戦いで秀吉に替り天下

をとった徳川家康は、朝鮮との国交回復促進のため対馬領主宗義智に命じて、

文禄・慶長の役の捕虜の一部を送還させた。

 

そして慶長十二年(一六〇七)国交は回復され、朝鮮通信使の前身「回登使兼刷還使し

と呼ばれた使節団が来日した。

 

刷還一ざっかん)とは戦役中に捕虜として連行或は難民として渡来した同胞の返

還を求めるもので、残留した人達に帰国を呼びかける諭告文を発布している(佐賀

県立博物館蔵)。その内容は「父母や国を思わぬ者はないだろう。自分の家で死にた

いだろう。翼域の鬼となってはならぬ」などと記載されている。

 

この呼びかけに応じて帰国を願い出た福岡藩高取焼の陶工は、藩主黒田忠之の忌講

にふれ一時冷遇されたとも伝えられている。

 

そして刷遷使は約三千人の同胞をつれて帰還したが、その後も継続的に数百人単

位で送還されたといわれる。しかしながら帰国の呼びかけにも応じないで九州の各地に

残留した渡来人達のなかには、帰化して姓を和名に改め、日本人との融和同和化にひ

たすらつとめていったのである。

 

その居住地の名残りを留める唐人町や高麗町の町名が、今も小倉、福岡、唐津、

佐賀、平戸、熊本、鹿児島などの各都市に探し求められ、望郷の祈りを捧げ、はる

か母国を偲んだ陶工たちの歴史の流れの歌声が、どことなく吹く風と共にそれぞれ

の町に聞こえてくるようだ。