平戸古窯跡編

 

第一章 平戸焼の名称

 

平戸焼と呼ばれる「やきものし」は、狭義では三川内焼と呼ばれ、十六世紀末から

十九世紀末にかけて肥前松浦平戸領内に点在する窯で作られた陶磁器を総称するも

のである。

 

このときの松浦平戸領とは、肥前国の松浦と彼杵両郡、壱岐国の壱岐と石田両郡

にまで及び、これらの中の古窯跡はさまざまな視点を現代に伝えている。

平戸系古唐津の陶器を焼成した古窯は、葭の本窯、柳の本窯、生石窯、藤原窯、

庵の横窯などである。

 

陶器と磁器を焼成した古窯は、中野窯、鶴ヶ峰窯、長葉山窯、三川内西窯、江永古窯、

江永東窯、地蔵平窯、庵の前窯、谷窯、木原西窯、木原東窯などである。

磁器を焼成した古窯は、三川内東窯、三川内下窯、上面千東・西窯、広田窯、

佐々市の瀬窯などである。

 

このように広範な地域に分布した古窯は、波佐見・有田・武雄・唐津を包括する

肥前窯業地帯の一角を占めていたのである。


下表は昭和五十三年佐世保市教育委員会による「三川内古窯跡群緊急確認調査報

告しを基準に作成した平戸焼古窯跡一覧表と平戸焼古窯跡分布図である。

 

平戸古窯跡名一覧表

地域

古窯

名所在地

平戸地域

@中野窯

(平戸市山中町紙漉)

A鶴ヶ峰窯

(平戸市岩ノ上町)

三川内地域

B長葉山窯

(佐世保市三川内町前田多々良)

C三川内下窯

(佐世保市三川内町一之間)

D古ノ田奥窯(よしんた)

(佐世保市三川内町一之間)

E神林窯

(佐世保市三川内町神林)

F吉谷窯

(佐世保市三川内町小谷)

G杉林窯

(佐世保市三川内町杉林)

H潜石窯(くぐりいし)

(佐世保市三川内町潜石)

I三」川内西窯

(佐世保市三川内町町中通)

J三川内東窯

(佐世保市三川内町金剛辻板谷)

K山の神窯

(佐世保市三川内町金剛辻板谷)

L上面千東窯(かみりようせん)

(佐世保市三川内町上両千)

M上面千両窯

(佐世保市三川内町上両千)

牛石地域

N牛石窯

(佐世保市新行江町牛石)

江永地域

O江永古窯

(佐世保市江永町横谷)

P江永東窯

(佐世保市江永町出□谷)

L江永西窯

(佐世保市江永町江永口)

木原地域

R庵の横窯

(佐世保市木原町地蔵平)

S庵の前窯

(佐世保市木原町皿山)

S地蔵平西窯

(佐世保市木原町地蔵平)

S地蔵平東窯

(佐世保市木原町地蔵平)

S木原西窯

(佐世保市木原町釜ノ谷)

S木原谷窯

(佐世保市木原町釜ノ谷)

N木原下窯

(佐世保市木原町釜ノ谷)

S木原東窯

(佐世保市木原町観音平)

S柳の本窯

(佐世保布木原町大通)

S葭の本窯

(佐世保市木原町吉野元)

日手地域

S藤原窯

(佐世保市黒髪町藤原)

早岐地域

S広田窯

(佐世保市広田町大手)

北松浦地域

S佐々市ノ瀬窯

(北松浦郡佐々町市ノ瀬)

 


第二章 平戸焼発生の系譜

 

第一節 波多氏の没落と岸岳崩れ

 

文禄の役で二千人の兵を動員した岸岳城主波多三河守親は、竜造寺隆信の娘婿に

当るので、第二軍の加藤清正・鍋島直茂軍に配属され、鍋島軍は伊万里港から、

渡歩軍は波多津港からそれぞれ釜山に向って出帆した。

 

ところが鍋島軍と半島で合流するはずの波多親は、北進せずに熊川に一年半以上

も居たのである。このため「熊川に隠れていた臆病者」といわれ、軍令違反の理由

で文禄三年(一五九四)領地没収と茨城県筑波山麓に流刑となり波多家は断絶した

(太閤書信)

 

そのため岸岳西山麓一帯の窯場の陶工たちは、椎の峯地方にのこっている「岸岳

から大川原越えて高麗さんが飛ばしたげな」という「岸岳崩れ」を比喩した口伝の

ように、家臣団と共に縁故を頼って各地に離散逃避したのである。

 

岸岳七窯と呼ばれる飯胴変上・下窯、帆柱窯、皿屋窯、追納屋谷窯、大谷窯、平

松窯は十六世紀前期に上松浦党の盟主波多氏が私貿易の際、北朝鮮の会寧・鏡城窯

系陶工らを連行して開窯させたといわれている。ここの製品は、李朝三島技法のも

のは全くなく、主に斑唐津と朝鮮唐津系の陶器である。

 

ところで「岸岳崩れ」の陶工団の一部は、竜造寺一族の勢力が根強く残っている。

三川内地方の縁者を頼り葭の元、柳の元、生石、長葉山に逃避して、ここで始めて

唐津系陶器窯を開いたといわれる。

 

特に長葉山古窯跡からは岸岳古窯発掘品と類似の陶片が多く出土して、岸岳陶工

の陶技を示唆するようである。

 

元和八年(一六ニ二)には、唐津椎の峯の陶工中里茂右衛門の妻中里嬰(高麗姥)

は、夫の死後岸岳崩れの陶工を頼って一子茂右エ門を連れて長葉山に転住し、長葉

山窯業の発展に寄与したといわれる。

 

この中里嬰に関する伝説は多岐多様であるが、中野窯開祖の巨関と同じ慶向南道

熊川の出身で、身分の高い神官の娘であったと云われる。

 

松浦鎮信公が文禄の役で熊川を守備駐留の間、要を寵愛されていた関係で平戸島

に帯同されて、陶工と結婚し窯業発展に寄与したと伝えられている。

伝説は言い伝えの口伝であれ、全く無価値と排除すべき性質のものでもなく、史

実とよく一致することもある。それで長崎県文化財指定中里陽山氏は、現地に飛び

その口伝の調査確認をされている。

 

要は窯業の運営や陶工たちの指導者として藩との種々な折衝に尽力したので、

「高麗婚」と呼ばれ信頼と尊敬をうけた。その子孫は中里・横石・吉川・里見の姓を

名のり、今に至るまで三川内窯業の中核をなしている。

 

 

第二節 中野焼 創始の陶工

 

平戸島中野窯の開窯に関する資料として、渡辺庫輔「三川内焼窯元今村氏文書」、

金森得水「本朝陶器孜証」、北島似水「日本陶磁器史論し、中島浩気「肥前陶磁史考」

などの著書があるが、その内容は大同小異である。

 

骨子は「文禄・慶長の役に参戦した平戸領主松浦鎮信が慶長三年帰還の際に熊川の

陶工巨関や高麗娚らを帯同して、平戸島大膳原一高麗町一に居住させ、巨関は帰化

して今村姓を名乗った。

 

鎮信は巨関らに命じて中野村紙漉に陶磁器を焼成させたのが中野焼で、これが平戸焼

の始まりであるという内容で、現在通説となっている。

 

しかし松浦鎮信は慶尚南道・全羅南道の沿岸警備に当っていた関係上、留守を預

かる父の隆信との連絡はどの大名よりも距離的に容易であり、武具糧秣の補給輸送

と陶工らの技術者や戦利品を戦役中でも随時に送還できる可能性は充分に理解でき

る。

 

したがって釈迦如来仏像、仏浬築絵や仏誕生刺繍仏画、梵鐘等の戦利品が、平戸

市最教寺らに宝物として所蔵されている事実を見ても、鎮信帰還前の陶工渡来も可

能であったと判断される。

 

かくして平戸渡来の陶工らにより、始めて中野窯が開窯されたが、陶土の不足と

良質な陶石を探し求めるため各地を巡り、寛永十一年(一六三四)巨関の子今村三

之丞が針尾島三ツ岳で白磁石を発見した。

 

しかし満足される白磁製作には至らなかったといわれる。そのため領内は勿論、他藩の

唐津領椎の峯、大村領波佐見、佐賀領南川原までも遍歴修業を重ねた成果で、各地の

陶石混用により寛永年間に初め、三川内磁器の発生をみたのである。

 

 

第三節 三川内焼の誕生

 

三川内地方は永禄六年(一五六三)大村貴明が武雄の後藤家の養子となった見返

りで大村領から武雄領となる。そして永禄八年(一五六五)松浦隆信の二男惟明が

武雄領主後藤貴明の養子となり、佐世保・日宇・早岐・針尾が初めて平戸領となる。

 

しかし天正十四年(一五八六)大村純忠は旧領奪回の野望に燃えて、後藤・有馬・

波多・有田の竜造寺一族の連合軍と共に、平戸領出城の井手平城(佐世保市三川内

本町)と広田城一佐世保市広田町)を落城させた。

 

そのため大村家と松浦家の和睦の証として、松浦鎮信の長男久信の正室に大村純忠の

娘を迎え、化粧料として佐世保・日宇・早岐・針尾・折尾瀬の五ヶ村の平戸所領が認めら

れた(大村家記)

 

さらに天正十五年(一五八七)曲豆臣秀吉による九州平定後の国割りで、平戸領三

川内地方の永代安堵が確認された歴史の流れのなかで、三川内地方にはじめて施紬

陶器の窯業が誕生するのである。

 

それは、前述した岸岳崩れの陶工団の一部が文禄三年(一五六四)この長葉山に

移住して唐津系陶器窯を開き、その後元和八年(一六ニニ)唐津椎の峯の中里陶工

団が長葉山陶工らを頼って転住し、窯業の発展に尽力したといわれる。その指導者

中里嬰の功績を称えて、三川内天満宮の境内に釜山大明神の石碑が宝暦八年(一七

五八)に建立されて、今も釜山神社として祀られている。

 

それから寛永十四年(一六三七)松浦隆信(宗陽)は、巨関の長男今村三之丞に

長葉山御用窯の設立を命じた。三之丞は唐津椹の峯皿山逗留申に親交のあった絵師

山内長兵衛と前田徳右エ門、陶工福本弥次右エ門らを招き、窯焼方に中里婆の子中

里茂右エ門、口石長右エ門、金氏太左エ門、藤本治左エ門らを配して、自らは皿山

棟梁・代官となり今村・中里・福本を主軸とした御用窯を発足させた。

 

しかし寛永十八年(一六四一)平戸島オランダ商館が長崎に移転したため、外国

貿易による利益を失い、藩主松浦鎮信(天神一は財政再建を迫られ、産業振興策の

ひとつに三川内窯業の拡充強化に力を注いたのである。

 

これが寛永二十年(一六四三)三川内皿山役所の出張所を木原山と江永山に設置

する結果となり、平戸藩三皿山の制度ができた。

 

其後、慶安三年(一六五〇)平戸島中野窯の陶工らを三川内長葉山に移住させ、

ここの中里陶工らと初めて合流し、平戸御用窯づくりの組織体制が確立されたので

ある(今村氏文書)

 


第三章 中野古窯

 

佐世保市から松浦鉄道に約一時間程乗れば、日本最西端駅の田平町平戸口に着く。

ここから平戸海峡に架った平戸大橋を渡ると松浦藩の城下町であった平戸市街に到

着する。そこには、オランダ・英国商館跡、オランダ塀、松浦史料博物館、平戸城

祉、俗楽園などの史跡や遺跡が存在し、昔日の名残りをとどめている。

 

その平戸という名称は、十世紀に編纂された「和名抄」にある庇羅郷から転じたと

いわれ、古代の末羅国の一部をなしていた。

 

中野古窯跡は、この平戸市街地から職人町や高麗町を過ぎて南約六粁の安満岳中

腹の山中町紙漉に位置している。紙漉川上流の山林にあるのを「茶碗窯」、下方の畑

地に位置するのを「皿焼窯」と呼び、この二つの古窯を総称して中野窯としている。

 

これらの出土陶片は判別し難い程酷似するので、同時期の窯と思われるが、学術的

発掘調査が未実施のため黒体の構造や製品の実態は明確でない。

 

今迄に採集された中野窯陶片は、淡クリーム色の陶器と初期伊万里磁器に類似す

る茶碗、皿、徳利が認められ、その一部には染付で簡素な草花・笹・柳・椿・虎・

鳳鳳文を描いたものがある。

 

俗に「中野焼」と呼ばれている陶胎に白化粧を施し、その上にさまざまな文様の呉須絵を

描いた全面貫入のある茶道具類が伝世している。

 

このなかの大半は、成形技法や絵画様式から考えても中野窯初期の慶長・寛永年

間の製品とは理解できない、むしろ有田吉窯の不自川窯・山辺田窯・大樽窯などか

ら発掘された寛文期の陶片に酷似するものもあり、一概に中野窯製品とは断定でき

ない。

 

この中野窯は、文禄・慶長の戦役中(一五九二〜一五九八)平戸島に渡来した巨

関や高麗蝿らの熊川陶工団によって開窯され、慶安三年(一六五〇)陶工団は三川内

皿山に移住したといわれている(今村氏文書)。

 

三川内長葉皿山への移住理由は不明であるが、三川内御用窯の拡充と平戸島の陶

土や薪材の不足が挙げられる。また「松浦家家世年表」のなかに、

慶安三年(一六五〇)八月平戸島を襲った暴風雨災害のため、隣国より米三万俵を買入

れ島民の飢餓を救ったと記述されている。

 

その被害の甚大さから判断すれば、中野窯場は壊滅的打撃を受けて操業不能となった

可能性もあり、三川内移住の要因になったかも知れない。

 

ところで中野焼を慶長年間の開窯から慶安三年の三川内皿山移住までの約五十年

間の焼物を初期中野焼とし、慶安三年後から江戸後期までの問に藩命により断続的

に焼成された焼物を再興中野焼とする見方をすれば、中野焼といわれる伝世品の鑑

別は納得のゆく解答が得られるであろう。

 

再興に関しては「今村氏文書」や「本朝陶器孜証」のなかの文書から略窺い知る

ことができるが、明確な再興の時期、器物の性状は不明である。今後の窯跡発掘調

査による教示を期待したい。

 

 

1. 唐津系陶器

 

土灰穐高台無紬の皿と茶碗、藁灰紬高台無粕の皿と茶碗、絵唐津波文皿、天目穐

茶碗陶片が出土する。とくに岸岳古窯発掘品と類似する釣蕉風斑唐津陶片の出土は、

岸岳崩れ陶工の技法を伝えるようで興味深い。

 

この斑唐津陶片は隣接する葭の本、柳の本、牛石らの唐津系陶器窯からは発見されて

いない。また出土した皿には胎土目積と砂目積と呼ばれる窯積の跡が残っている。

 

胎土目積とは器物と同じ素地の土を数個の小塊にして高台畳付の上に置き、砂目積と

は山土を小団子状にして畳付の上に置き、焼成時には上下の器物接着を防ぐ

ための手法である。一般に胎土目積の方が古く、胎土目積から砂目積への移行は慶長

年間といわれる。

 

2. 半磁器

 

磁器焼成を狙って、土灰糖を高台内部まで総がけした黄緑色の無文茶碗が出土する。

 

3. 青磁

 

青磁は大村領波佐見三段石を使用したと思われる全面貫入の茶碗片が出土する。

 

4. 白磁

 

白磁には灰白色素地と純白素地の皿や茶碗片が出土している。

灰白色素地の磁器は、成形・施紬・呉須・絵柄などから、判別し難い程初期伊万

里に類似している。恐らく三川内吉の田、相木場、針尾島三ヶ岳、波佐見三股らの

陶石を適宜に選択して、寛永年間から寛文初年頃までの焼成された製品であろう。

 

器面には山呉須で簡略な山水、雲、人物、鳳鳳、蝶、日学文が描かれて、その中

には高台内に「大明」染付銘のある皿や、見込に染付日字文のある皿があり、寛永末

・慶安期と製作年代を推定できる資料といえる。

 

有田吉窯の山辺田・掛の谷・弥源次・楠木谷窯からも同種の染付日字文皿が出土して

いる。

 

一方の純白素地の磁器は、染付寿学文皿、染付雲龍文と鳳鳳文碗が出土して、成形

・呉須・図柄から判断して寛文期の製品と思われる。

 

この白さを増した純白な磁器の原料には、寛文二年(一六六二)今村三之丞の子

弥次兵衛が発見したといわれる天草石便用の可能性が強い。

 

陶石に含まれる酸化チタン・酸化第二鉄の含有量の少ない程白色の磁器となる条件を

具備した天草石の使用は当然であろう。また寛文二年天草石発見説に対し正徳二年

(一七二一)木原山横石藤七衛の天草石発見説もあるが明瞭でない。

 

長葉山窯の開窯上限は、文禄三年二五九四一岸岳崩れの陶工団移住後の慶長年

間である。そして寛永十一年二六三四)今村三之丞が針尾島三ツ岳白磁鉱発見後

から、寛永十四年(一六三七)御用窯設立前後が三川内磁器の創始期とみられる。

 

閉窯下限は、寛文八年(=八六八)御用窯拡充のため、新しく三川内山の四反の

土地に御代官所、御細工所、定番所(御用窯を警備する番人の詰所)などを設置し

た記録から、寛文八年頃の閉窯であろう(三川内窯業沿革史)。

 

この移転先として、三川内集落奥地の三川内束窯や三川内西窯の可能性は充分に考え

られる。

 


第二節 三川内西窯 と 三川内東窯

 

三川内西窯跡は、三川内集落奥地にある天満宮東裾の北面する台地に位置し、

高麗窯・中通窯とも呼ばれた。西窯跡から出土した江戸後期の白磁染付草花文皿、

茶碗、仏飯器、刷毛目茶碗陶片などである。

 

三川内東窯跡は、西窯と谷を隔てて東側の北面する台地に並行して位置し、金剛

谷窯と呼ばれた三川内最大規模の窯である。

 

両窯の開窯時期は前述したように寛文八年後と考えられ、現在御田川窯跡と確認で

きる窯が発見されていない段階では、両窯の一部の窯室が藩窯として使用された可

能性は充分にある。

 

閉窯時期は、明治十四年京都府博物館による全国陶磁器沿革調査で、三川内山に

は中通窯、金剛谷窯、一の問窯〜川内下窯)の三登五十一問の操業報告があり、

昭和十六年中里末太郎氏自ら西窯の火を消したといわれ、両窯とも昭和初年頃の閉

窯である。

 

 

第三節 三川内下窯

 

三川内山集落にとりかかる左手の北面する丘陵地に吉窯跡は位置して、一の問窯

とも呼ばれた。

物原出土製品は、白磁染付草花文皿・茶碗・徳利、白磁盃と碗、白磁犬・布袋・

亀置物、瑠璃鉄穐水滴と人形などで、江戸末期から明治初年頃の製品である。

 

他の神林窯、小谷窯、上面千東窯、上面千両窯は江戸末期から明治初年以降の窯

と思われる。

 

 

第四節 三川内焼の特色

 

元禄十一年(一六九八)の御用窯機構を窺い知る役人名が「三川内焼窯元今村文

書」のなかに「御山奉行立石伊左エ門、皿山代官井手甚五兵衛、三皿山頭領今村弥

次兵衛、御絵師田中与兵衛尚俊(御用絵師片山間景の弟)、三川内庄屋口石長右エ門、

御山方後志方佐五右エ門、五人頭金氏太左エ門、古川甚右エ門、書記高橋善兵衛」

とある。

 

この整備された御用窯での製品が、元禄十二年(一六九九)朝庭へ献上され、また

天神鎮信公が束本願寺寂如上入へ献納したという記録もある。

 

元禄・享保前後の三川内焼作風を示す貴重な染付秋草丈皿である。このように

三川内磁器を献上する程に大成させた名工今村弥次兵衛に対して、天神鎮信公は

「如猿」の号を授けた。

 

現在三川内山にある陶祖神社境内の石碑に「其祖如猿、芳年差辛の余慶なる恩沢

に浴する三皿山居住民、子々孫々に至るまで敢而これを忘るるなかれ、因而自今、

陶器満足祈願所として、如猿大明神と崇祭司致事天保十三年壬寅三月九日

源煕花押」という刻銘があり、如猿を三川内焼の陶祖に祀るように観中松浦公は

宣旨されたのである。

 

天神鎮信公は三川内焼発展を最も推進した藩主で、茶の湯の多賀左近、金森宗和

らと親交を結び、皇一子二年(一六八五)から徳川家綱の茶道師範片桐石州と石州の

家臣藤原宗源に師事して公茶道を習得して、茶道鎮信流の家元を開いた。それで代々

の藩主はこれを継承し、茶道に関係の深い茶道具、文房具らの作品が多く造られて

いる。

 

ところで三川内磁器の魅力は、繊細優美な形成と純白な磁肌に描かれた薄い童青

(ライトブル)に発色した染付絵にあり、明・清染付絵画の楼閣山水、雲堂手、

唐花車、唐子遊戯、七賢人文様などを手本にして、狩野派流に陶画化されている点

である。

 

とくに松唐子遊戯図は、枝を左右に伸ばした唐松の根元に太湖石と牡丹を描き、

唐団扇を持った唐子や嬉々として蝶を追う唐子の遊ぶ図柄で、輪宝と称する嬰堵文

の輪郭模様が配置されている。

 

現在も三川内焼を代表する有力な図柄になっているが、寛政年間頃に御唐絵師が

明染付の唐子絵図を平戸化したと伝えられている。当時は平戸藩の「御留焼」とい

われて、七人唐子は献上品、五人唐子は藩用品または諸大名への贈答晶、三人唐子

 

は一般用といわれるが、真偽の程は不明である。

寛政から天保年間にかけて三川内装晶の最も円熟した時期で、全国の窯場から技

術指導の養成があり洞山焼(広島県府中市出口町)、厳羽焼一山口県下関市前田胴羽

山一、出石焼(兵庫県出石郡出石町)、砥部焼(愛媛県伊予郡砥部町)、能茶山焼(

知県高知市能茶山)らに平戸陶工が招聴されている。

 

さらに文政十一年(二八二八)の台風により有田皿山は全滅し、三川内焼の需要

が内外ともに増加して、海外貿易に応えて天保元年(一八三〇)平戸焼物産会所が

長崎に設置された。

 

天保・弘化年間(一八三〇〜一八四七)の御用窯構成は、陶工御用人十八名、窯

焼手伝五十一名、赤絵師六人で、三川内皿山の窯業関係老は三百戸といわれている。

この記録には赤絵師六人とあり、天保六年(一八三五)椋尾之助と椋尾真之丞、

弘化三年(一八四六)今村文助と今村長右衛門が頭領今村槌太郎宛ての赤絵錦手に

関する文書がそれぞれあるが(「今村氏文書」)、三川内赤絵製品の編年を確認できる

資料には至らない。

 

赤絵金彩空海坐像、色絵唐子坐像、図蛉赤絵金彩金魚文可否、赤絵金彩桜花赤

玉文蓋付碗が、恐らく天保・弘化前後に相当する作品と思われる。

 

また池田安治郎、高橋兵助、中里童太郎、古川正作らの御用窯工人は、純白極薄

の卵殻手といわれるコーヒー茶碗やワインカップなどを開発し輸出品の目玉商品と

なり、捻り細工、透し彫り製品と共に外国人に高く評価された。

 

これらに注目した有田の豪商久富与次兵衛は、天保十二年(一八四一)頃から三

川内に卵殻手ティーカップなどを注文し、赤絵は有田で絵付させ「蔵春亭三保造」

銘の製品を輸出する。

 

さて明治四年の廃藩置県で三川内御用窯の組織も解体されて、長崎平戸焼物産会

所の業務一切も民営に移された。

 

当時の郡令古川澄二は福本栄太郎らと、この業務を引き受け、「万宝山高舗」とい

う名称に改め、「平戸産技栄造」、「満室山技栄製」銘の製品を販売した。

しかし経営不振となり明治七年古川澄二の甥の豊島政治は、富田熊三郎らに協力

を求め業務を引き継ぎ、東京・横浜・神戸・長崎などの居留地に販路を拡張し再建

に努力した。

 

その時の製品、染付山水虎渓三笑図水指や火皿が伝世しており、高台

内に「神戸参大番地デヤス商会註文ニヨリ是ヲ製ス三川内豊嶋」の染付銘が認め

られ、当時の海外貿易の一端を窺い知る好資料である。

 

豊島政治は明治三十二年に、里見政七、中里利一、今村虎之助、中里巳午太らと

職業訓練学校ともいうべき「陶磁器意匠伝習所」を開設する。

そして伝習所は明治三十九年村立工業補習学校に併合され、大正七年には陶磁器

徒弟養成所と改称されて、今日の三川内焼発展の基礎を築き、伝統技術の後継者を

育成したのである。この頃の結びとして三川内磁器の特徴に就いて次に記述する。

 

1. 寛永十一年針尾島三ツ岳の白磁鉱の発見後から寛文二年天草島天草石を発見

するまでの間に、針尾蔓ニツ岳石と波佐見三段石を主原料として焼成されて初期

伊万里風磁器を前期三川内焼とし、寛文二年以降から幕末までの問に、天草石を

主原料として焼成された純白な磁器を後期三川内焼とに大別して、三川内磁器の

時代変遷を考証すれば理解が容易である。

 

2. 前期三川内焼の絵柄は初期伊万里に略類似している。後期三川内焼は、磁器

面に展開した写生風の絵画模様で、藩御用絵師が狩野派の筆法で細密な描線と染

付の濃淡を巧く付けた所謂平戸陶画の中国版をみるようで、染付の藍の色は平戸

独特の味がある。

 

3. 後期三川内焼のなかの白磁製品は、薄青味を帯びた穐肌が時代が降るにつれ

て白さの上に白さを加えて純白なミルク質の肌となる。作行も几帳面過ぎる程酒

税優美に精錬されている。

 

4. 御用窯製品には、器物の高台内やその一部に松浦家の家紋梶の葉・三ツ星の

染付髭或は刻銘がある。また皿や袋物の高台脇と高台内に染付二重圏線を認めら

れて高台内は殆ど無文である。有田磁器の場合は染付単・二重圏線内に中国や日

本の年号銘、吉祥字銘が認められる。

 

5. 幕末から明治初年頃の三川内焼は、高台内に、玩、三川内平戸造、平戸産三

川内、三川内、大日本○○造、平戸産技栄造などの染付銘が出現してくる。

 

6. 皿や鉢の裏文様の蔓草や唐草連続文に繋がる五弁花やハート形葉は三個が多

い。伊万里磁器の場合は四個以上が多いのである。

 

7. 高台畳付の形状は、時代が降るにつれてやや高めの直立的な薄造りなり、

伊万里磁器の付高台以外の場合、部厚く曲線的な進りが多いようである。


第五章 木原古窯跡群

 

佐世保市木原町は、かって樹木の生い繁った台地であったという訳で、木原の地

名が由来したといわれている。北は佐賀県西有田町と有田町、東は長崎県波佐見町、

南は佐世保市江永町に隣接して、三方を丘陵に囲まれた窯業地である。

 

その丘陵のなかの幕頭山には三領境碑(寛保二年建立)が建てられて、「兆三領境東西

北峰尾続雨水分佐嘉領松浦郡有田郷」「兆三領境東西峰尾続雨水分南大村領彼杵郡

波佐見郷」「兆三領境西北峰尾続雨水分平戸領彼杵郡早岐郷」という刻銘がある。

 

藩政時代の平戸・大村・佐賀三藩の境界を示すものであるが、・各藩境の寒用山林伐採

権をめぐり度々発生した紛争を防止する石碑ともなった。

 

この木原町には、佐賀県境に最も近い位置にある葭の本窯、柳の本窯、その西側

に位置する庵の前窯、庵の横窯、地蔵平窯、木原西窯、木原下窯、木原谷窯、木原

東窯の古窯跡が確認されている。

 

木原告窯の特徴を要約すれば、慶長期から寛永期にかけて唐津系陶器を生産した

窯は、葭の本・柳の本・庵の横・地蔵不束の諸窯で、とくに地蔵平東窯は陶器から

白磁に移行する過程を示した窯である。

 

次に元禄期頃から生産された刷毛目と元文期頃から生産された半磁器を共併する

窯は、地蔵平西窯・庵の前窯・木原谷窯・木原西窯・木原東窯であり、寛政期頃か

ら白磁染付が木原西窯・木原谷窯・木原東窯で生産されて、木原下窯と共に明治期

まで操業されたようである。

 

 

第一節 葭の本窯

 

国道三十五号線に沿って走るJR佐世保線の踏切りを古里という地名から渡り、

一本道の農道を山さわまで登りつめると、「史跡葭の本窯跡」の説明板が建てられて

いる。この西側一帯に古窯跡群が所在して、約一軒の距離にある北の佐賀県西有田

町原明吉窯跡、東の長崎県波佐見町畑原吉窯跡に隣接している。

 

昭和三十五年長崎県文化財指定を受けた葭の本古窯の発掘調査が、昭和五十七年

佐世保市教育委員会により実施されて、近世初頭における窯業創生期の唐津系陶器

窯と報告されている。

 

吉窯跡は北西斜面台地の東端から西側に向って123号窯三基の階段状連房

式登窯が平行状態で確認されている。

 

一号窯の製品には胎土目積絵唐津平線皿(トンビと呼ばれる簡略な草文一が主体

を占めて、土灰穐の立縁皿・溝縁皿・茶碗・鉢.杯、天目茶碗が認められる(図25一。

 

二号窯の製品には土灰穐の砂目積溝縁皿・平線皿・波線皿(縁なぶりと呼ばれ、

平線皿の三方を内側に指頭で押した変形皿)・茶碗、天目茶碗、飴箱壼、絵唐津片口

などがある。

 

三号窯の製品には絵唐津は全く無く、土灰稿砂目積溝縁皿、天目茶碗、揺鉢などが認

められ、生活用品が主に生産されたようである。

 

三基のなかの1号窯は絵唐津が主で窯積みの技法は一号窯では胎土目積、二号三号

窯は砂目積である。

 

通例としては、絵唐津の胎土目積皿から無地の砂目積皿へと移行してゆくと考え

られているが、葭の本窯の場合は、胎土目積と砂目積の技法は共存関係にあり、

器種によって使い分けられたのであろうと報告されている。

 

さて肥前陶業の発生原因は、文禄三年の岸岳崩れの陶工分散説と慶長三年の朝鮮

戦役終焉後の陶工渡来説が根拠となっている。

 

葭の本、柳の本、生石、長葉山窯の所在する平戸藩領三川内地区は、かっては

竜造寺一統の勢力圏であったので、岸岳崩れの陶工達は縁故老を頼り移住し

慶長年間(一五九六〜一六一七)に開窯したものと考えられ、平戸島中野窯を開窯した

陶工とは別の集団と解釈すべきである。

 

西有田の二の瀬・小森谷・辺の原・清六の辻・原明・小物成・小溝などの諸窯を開い

た陶工達と同一系統であろう。

 

廃窯時期は、元和元年(一六一五)徳川秀忠が一国一城令を発し、松浦藩、鍋島

藩、大村藩の藩境確立後の寛永十四年(一六三七)頃と思われる。

 

葭の本古窯跡の同側の前平台地に宗全・妙永と記された墓碑が、老樹の根元に抱

込まれている。土地の人々はこれを吉窯創始者金久永夫妻の墓といい伝えているが

確証はない。

 

第二節 柳の本窯

 

柳の本古窯跡は、古里の農道から前平を適り抜けると溜池があり、その前方の尾

崎氏住家の前面畑地と雑木林西側小丘陵帯に古窯跡は位置する。

 

葭の本古窯群とは約数百米の近距離で、黒体や焼成室規模などは不明である。

物原出土品は葭の本窯と大同小異で、土灰紬の平線皿・溝縁皿・火皿・茶碗(

67)・酒盃、天目粕の溝縁皿・茶碗・徳利、絵唐津の皿・火鉢・茶碗、鉄穐と長石穂

の片身替り皿、片口、すり鉢、また白化粧した上に文様を描いた二彩唐津皿が認め

られる。

 

絵唐津は葭の本窯より唐草や海老図を描き写実的になり、皿には胎土目積と砂目

積が認められる。

特に注目されることは、物原に多くの厘鉢を認めるので磁器焼成の可能性もあり、

今後の発掘調査の成果を期待したい。

 

開窯時期は葭の本窯と同じ慶長年間(一五九六;ニハ一七)で、西有田の清六の

辻占窯の特色である鉄紬と長石穐で装飾した砂目積片身替り皿が、この柳の本窯と

生石窯から出土したことは、陶工の交流、編年の資料として価値がある。閉窯時期

は寛永十四年前後であろう。

 

 

第三節 地蔵庫窯群

 

国道35号線のバス停木原口からJR佐世保線のガードを潜りぬけると、木原町の

窯業集落に到達する。横石臥牛窯(長崎県無形文化財指定)工房の右側露地を登る

と地蔵庵や十一体の地蔵尊、無数の墓石が立ち並ぶ丘陵地一帯が古窯跡の所在地で

ある。

 

ここの地蔵平東窯、地蔵平西窯、庵の横窯、庵の前窯などの古窯跡を総称して本書では

「地蔵庫窯群」と呼ぶ。

 

 

. 地蔵平東窯と地蔵平西窯

 

昭和五十二年佐世保教育委員会による「木原地蔵平窯跡の発掘調査」報告書には、

木原町地蔵平の川尻瓜住宅裏の南向き丘陵地に、平行した二基の階段状連房式登窯

の東窯と西窯が確認され、東窯には新旧二基の重複した窯が発見されている。

 

物原下層部の出土品には、葭の本窯と柳の本窯から引継いだと思われる土灰糟高

台無稽溝縁皿、絵唐津皿〔草・梅・笹・圏線・御所車文一、白磁染付草花文皿、白磁

染付茶碗、鉄紬茶碗と徳利、上層部からは、染付雲竜文見込荒磯くずし鉢、伊羅保

茶碗、献上唐津風茶碗、火皿、片口、火入などがみられる。

 

とくに東窯は、唐津系陶器から白磁焼成に移行する過程を示す窯で、砂目積から

蛇の目積に移る陶器と磁器の接点を考察できる好資料が出土している。

それは高台無箱の見込み蛇の目穐剥ぎ鉄紬又は染付草花文陶器皿と、陶器皿と同

じ手法で造られた高台無穂の見込蛇の目紬剥ぎ染付草花文磁器皿である。

 

頃この染付草花文磁器皿の見込内にある「王」字銘は、平戸三皿山(三川内山・木

原山・江永山一の最高権力者は松浦藩主であるという認識が陶工達にあって描かれ

たもので、たとえ脇窯的存在であっても、御用窯としての自負もあったのであろう。

 

また高台脇に「清水」の刻印のある献上唐津風茶碗片の出土は、伊万里市大川内

山の御経石窯と清源下窯跡からも出土した高台内に「清水」の刻印のある京焼風茶

陶片に類似し、肥前地区と京阪方面の流通関係を研究する上で貴重な資料である。

 

東窯の開窯時期については、葭の本、柳の本窯と近接位置にある関連性から寛永

十四年前後と考えられる。廃窯時期は物原上層部から染付雲竜文見込荒磯くずし茶

碗と「清水し刻印の献上唐津風茶碗などの出土から考察すれば、元禄末年頃と考え

られる。

 

地蔵平西窯は東窯廃窯後の単独窯で、刷毛目皿と茶碗が主体を占める。

 

2. 庵の前窯

 

古窯跡は横石臥牛工房裏手の地蔵庵のある南側丘陵斜面に位置する。黒体・窯室

規模などは不明であるが、土灰紬高台無穐皿、刷毛目皿と茶碗、半磁器染付山水文

茶碗・火入などの出土品がある。

 

3. 庵の横窯

 

古窯跡は庵の前窯の上方、地蔵庵の東側に位置する。今は黒体・窯室・窯道具な

どは全く確認できないが、二米正方形の窯室が数室あり、唐津系陶器を産山山したと

伝えられている。地蔵庵附近の地形から推考して地蔵庫窯群で最も古い窯と推考し

ている。

第四節 木原西窯 と 木原谷黒

 

木原公民館左側の露地を登ると大神宮碑があり、元禄九隼(一六九六)施主としての

人名、池田・丸田・湯口・石丸・石田・岩永・山口・横石・樋口らの姓が彫刻

されている。さらに登ると陶祖神社があり、その後方運動場の西側南斜面丘陵地に

西窯跡が所在する。

 

黒体の規模の実体は不明であるが、焼成室は二十室前後といわれている。

木原谷窯は運動場の東側丘陵地に西窯と並行して位置するが、黒体は破壊されて

詳細は不明である。

 

両禁物原の出土品は大差はなく、土灰穂の高台無紬と高台有徳の蛇の目紬剥ぎ陶

器皿、刷毛目蛇の目紬剥ぎ皿と茶碗、刷毛目茶碗、刷毛目火入、半磁器染付

螺施文火入れ、半磁器鉄粕の松文・山水文茶碗、半磁器染付山水文・柳文・松文

・連続唐草文茶碗、青磁花立、白磁染付草花文・山水文茶碗、白磁染付単文徳利

などの日用雑器などである。

 

 

第五節 木原東窯

 

木原東窯は木原町集落奥地の天満宮の西側観音堂裏手の南傾斜面畑地に位置して

いる。今も各窯室は確認できる木原最大の規模を持つ達房式登窯である。

物原出土製品は刷毛目皿と茶碗、半磁器染付連続唐草文茶碗と火入れ、白磁染付

草花文・松文・御文・蝶文化碗と酒盃、白磁染付笹文と大坂新地字文江碗などがみ

られる。

 

とくに「大坂新町於笹紅」という染付文字紅碗は、関西方面にまで出荷されて、紅碗の

内部に紅が塗られて販売された日用品である。同種の紅碗が奈良奉行所跡から出土

した報告もある。

 

またこの白磁染付紐碗は、長崎市長与町長与古窯でも焼成されて「大坂新町玉笹紅」

という染付銘がある。

 

開窯時期は、木原町釜の谷に所在する大神宮石碑に元禄九年(一六九六)の紀年

銘が認められるし、物原の出土品も西窯、谷窯とほぼ類似しているので、これら、

三窯とも元禄九年頃の開窯とみられ、何れも明治期まで操業した窯である。

 

 

木原西窯の下端に接して所在した木原下窯は、明治期の個人窯のようで製品の内

容は不明である。

 

一般に「木原刷毛目」と呼ばれる茶碗(図72)・皿・火入れなどの一連の陶器は、鉄分を

多量に含んだ赤土の素地に刷毛で、白化粧の波・雲・螺旋・縮緬文様をつけたもので

ある。

 

木原皿山の木原西・木原束・木原谷・地蔵平西・庵の前窯以外の江永吉窯、

三川内西窯、潜石窯、藤原窯でも生産されている。

 

この木原刷毛目は享保年間(一七一六〜一七三五)前後から生産されて、寛政初

年(一七八九)頃に半磁器の茶碗や火入れに交替してゆくようである。木原刷毛目

と旧諌早藩領現川で焼成された現川焼との関係について諸説があるが、現川焼は武

雄系窯から発達したもので、木原窯の分窯とは考えられない。

 


第六章 江永古窯

 

江永町は佐世保市の東部に位置し、国道三十五号線江永皿山入口からユR佐世保

線踏切りを越え江永川に架かる流矢橋を渡り、山あいの一本道を前進すると江永町

の窯業集落地に着く。ここには江永古窯、江永東窯、江永西窯の古窯跡が所在する。

明暦二年(一六五六)の松浦文書には「柄長」とあり、細長い柄のような谷の形

から江永という地名が由来したといわれる。

 

 

第一節 江永古窯

 

江永集落最深部の江永ダムの下方台地に江永吉窯跡は所在して、昭和四十九年佐

世保市教育委員会によって発掘調査が実施された。その報告書には、同位置で重複

した三基の階段状連房式登窯が確認され、層位的発掘により白磁染付下刷毛目下半

磁器という特徴のある編年が報告されている。

 

即ち高台無紬の蛇の目穐剥ぎ陶器皿と蛇の目稚剥ぎ染付磁器皿を経て、白磁染付皿と

茶碗となり、次に刷毛目皿と茶碗から最後に半磁器茶碗と火入れの製造で終ったという

特異な変遷を示している。

 

最下層部の製品は、土灰紬の高台無描蛇の目穐剥ぎ陶器皿、高台無紬蛇の目紬剥

ぎ染付草花文・海老父・鳳鳳文磁器皿、白磁染付草花文・唐草文・松竹梅文・菊水

文・雲竜文荒磯崩し文茶碗、献上唐津風茶碗、白磁染付仏飯器、青磁花器などであ

る。中層部は刷毛目茶碗と火入れ、最上層部は半磁器染付山水文・連続唐草文茶碗

火入れなどが主である。

 

佐賀藩領の有田では既に陶器から磁器生産へ移行した時代に、この古窯は白磁染

付生産から刷毛目陶器と半磁器染付製造に逆行している。恐らく生産価額を安価に

多産せんがための経済的措置であろう。

 

長崎県立波佐見窯業試験場の陶磁片分析値表によれば、天草石より安価な波佐見

三段石と江永基盤土を混合焼成した可能性の成績が示唆されている。

 

この半磁器は陶器と磁器との中間的な焼物といわれ、灰・黒褐色の厚手素地に呉

須や鉄穐で簡略な山水文や連続唐草文が描かれ、長石紬を掛けた製品である。

十八世紀淀川通いの船で需要の多かった波佐見焼くらわんか茶碗しの評判に便乗して

生産されたものであろう。

 

また半磁器の主原料に使われた大村藩領波佐見三段石を容易に入手できた理由を

推考すれば、天正十四年(二五八六)松浦久信の室に大村領主大村喜前の妹を迎えて

以来、松浦藩と大村藩の姻戚関係が成立して、各代の平戸藩主は三股陶石の分譲交渉

は公的にも私的にも容易であっただろうと思われる。

 

開窯時期の上限を示す記録は、中島浩気「肥前陶磁史考」のなかに、寛永二十年

(一六四三)三川内皿山役所の出張所を木原山(責任者小山田佐平一と江永山(責

任者山口辰次郎一に設立したとある。又北島似水「日本陶磁器史論」には、寛文十

(一六七〇)木原皿山から分窯して江永皿山が創設されたと記されている。

 

しかし寛永期に相当する吉窯が江永山のどこかに存在する可能性は充分あると考

えられるが、現在まで古窯跡が発見されていない以上は、寛文期に木原地蔵平窯の

分窯による開窯と見てよいであろう。

 

閉窯時期は、江永吉窯より分窯した江永東窯にある大神宮石廟に「寛政十一巳末・

歳釜焼中」と記されているので、江永古窯の廃窯は寛政十年(一七九八)頃と推察

される。

 

第二節 江永東窯

 

江永古窯跡の西方北斜面舌状台地に江永東窯は位置して、窯室の四室が確認でき

る。窯跡の左上台地には、数基の「山の神」石祠と寛政十一年の紀年銘がある大神

宮石廟が所在する。窯神は築窯時がその直後に築くという当時の習慣性を考慮すれ

ば、寛政十一年(一七九九)頃開窯されて、明治初年頃の廃窯であろう。

 

出土製品は半磁器の染付唐草文や山水文茶碗と火入れが主体で、なかに白磁染付

茶碗も認められる。

 

第三節 江永西窯

 

江永町集落西側の丘陵斜面に新旧二基の十五室程度の窯があったと伝えられてい

る。製品は白磁染付の日用雑器類で、明治初年頃から昭和七・八年頃まで操業した

といわれる。


第七章 生石窯

 

JR佐世保線の無人駅の三河内駅前から生石橋を渡り、波佐見町に通ずる県道を

南へ約一軒進むと左手丘陵に大神宮がみえる。それを目標に細道を左折してゆくと、

山口氏宅裏側の西斜面舌状台地先端に窯跡が位置している。

 

その窯跡後方の畑地には朝鮮陶工の墓石と伝えられる多くの石が雑然と散らばり、草花

が供えられて一抹の哀愁が漢よう。

 

現在は宅地造成のため古窯は破壊されて、黒体・窯室規模などは不明であるが、

昭和五十八年緊急調査された佐世保市博物館島瀬センター学芸員久村貞男氏の

「生石窯跡記録報告書」に、古窯の特質を紹介されている。

 

牛石古窯は唐津系陶器窯で白磁は焼成していない。皿の窯積技法は胎土目積から

砂目積に移行し、溝縁皿は認められない。

 

出土製晶は、土灰箱の皿・碗・鉢・壷・片口、鉄粕の皿と茶碗、皮鯨茶碗と鉢、絵唐津草

丈皿や井桁文波線皿、絵唐津丸文茶碗と壷、鉄細長石油掛分け皿や

徳利、蛇蝿紬碗、播鉢などがある。

 

とくに蛇蝿紬碗は、武雄系祥古谷窯と李祥古場窯のみ認められる技法で、

鉄紬の上に長石紬をかけると、両袖の収縮率の違いで表面の長石柚が縮れて白斑の

黒い蛇蜴文様となったものである。生石窯と武雄系窯との連繋性について、柳の本

窯出土の刷毛目皿も含めて今後に課題を残している。

 

また鉄粕と長石粕掛分け唐津徳利(14)は、初期伊万里染付徳利や茶碗と共に

沖縄島より多量出土したもので、元和・寛永年間前後の肥前と琉球との流通史研究

に興味ある資料である。

 

開窯時期は岸岳崩れの陶工達の移住後の慶長年間(一五九六〜一六一四)の開窯

で、閉窯は隣接する柳の本窯や葭の本窯と同時代の寛永年間(一六二四〜一六四三)

と考えられる。

 


第八章 藤原窯

 

藤原古窯は別名猫山窯ともいわれ、JR佐世保線日宇駅の東方約四粁に位置する

藤原山のふもとの椿丘団地と対面する丘陵地先端に所在している。今も窯跡附近で

窯道具や陶片を散見できる。

 

出土製品は江永・木原告窯の出土品と同種の刷毛目茶碗、皿、火入、揺り鉢など

の日用雑器の陶器である。

 

安政四年(一八五七)の金森得水著「本朝陶器孜讃しには「巨関の子三之丞と云

者今の今村家の祖中野村上の宜きを得ざるを以、領内所々に移り、日宇村早岐より

一里藤原山と言所にて焼たり、是を藤原焼と云、今至り稀なり、風は三島手の如し」

とある。

 

また文久二年(一八六二)今村家文書「早岐焼物之事間答しには「自手出來仕ら

ざる前方なれば、寛永の比に候聞よし」とある。これらの記述に関する限り、寛永

期の開窯とする見方もできる。

 

しかし、ぼってり部厚い形状をした唐津系刷毛目の茶碗と皿が出土品の主体を占

めているので、その形状から享保年間(一七ニハ〜一七三五)の開窯とみるべきで

あろう。短期問の操業と思われるが、黒体と窯室の規模、閉窯時期などは不明であ

る。

 


第九章 広田窯

 

広田古窯は別名納屋の谷窯ともいわれ、上窯と下窯があり、何れも江戸後期の連

房式階段状登窯である。佐世保市の東部、目†岐町南部の広田町小森川に面する丘陵

地に所在する。今も窯壁(おんざん)の一部が残存し、山頂には稲荷大明神を祀る

神社と窯神を祀る天保十二年刻銘の「山の神」石碑がある。

 

広田窯の操業期間は、天保十二年銘の窯神「山の神」碑の所在から推考して、天

保年間(一八三〇〜一八四三)から明治末年迄であろう。

 

広田焼は簡略化された漫画風唐子絵が特徴で、輸出用角皿(20)、茶漬蓋付碗一図

酒盃(図6)など伝世している。

 

出土製品は殆んど染付磁器で山水・草花・松竹・笹文の皿、鉢、茶碗、猪口、紅

碗が認められる。この広田町は、江戸初年頃は早岐七ヶ村(早岐・広田・日宇・佐世保

・崎針尾・江上・折尾瀬)と呼ばれたなかの一村で、大村藩に対する平戸藩番城の広田城

もあった。

 

広田と隣接する早岐は大村藩との藩境に位置する軍事交通の要地であったため、

平戸藩の代官所が置かれ、早岐代官は三川内三皿山のある折尾瀬村まで支配した。

 

そして四百年前からの伝統をもつ海陸産物を物々交換する早岐茶市は現在も残り、

そのため広田焼を含む三川内焼は「早岐焼」とも呼ばれて「早岐戸○○造」銘のあ

る染付皿も伝承されている。

 


第十章 佐々市の瀬窯

 

尾張瀬戸復興の磁祖加藤民吉物語で全国的に有名になった佐々市の瀬古窯跡は、

佐世保市から国道二〇五号線を車で約四十分北方に向い、松浦鉄道佐々駅近くの

佐々町皿山公園内に所在する階段状連房式登窯である。

 

出土製品は天草陶石を原料とした染付磁器で、簡略された草花・竜・千鳥・魚・

網目文の茶碗、皿、香炉、花立、盃洗などの日用品が認められる。

 

福本家系図に「文化石辰従静山上様焼物御用被仰付偽御吹聴御直書富士御狩

画十七物拝領」との記録があり、平戸藩主静山公より福本新右エ門に御用命を戴い

ているので、優品も製作されたと思われるが確証できる伝世品は不明である。

開窯時期に関し福本家系図の記録では、宝暦五年(一七五五)三川内陶工の福本

新左エ門、福本勝左エ門、福本九兵エ、椎葉孝兵エ、横石文主エ門の五名が移住し、

初めて開窯したことになっている。

 

三川内山より遥か遠いこの土地にどのような理由と目的で開窯されたのか謎を秘めて

いる。そして文政八年(一八二五)福本新左エ門の孫新右エ門の代になり閉窯された。

さて「加藤民吉物語」についてさまざまな伝説があるが、文政元年(一八二八)

瀬戸深川神社宮司二宮守恒が民吉の口述を記録した「染付焼起原」や大正四年蔵六

漫筆「古陶録」のなかの記述は信懸性は高いと思われる。

 

それで民吉の九州における陶技修業の足跡を辿ってみよう。

 

文化元年(一八〇四)熱田奉行津金文左エ門の命をうけた民吉は、まず肥後天草

島の東向寺住職である尾張出身の天中和尚の紹介により高浜皿山で製陶の修業につ

く。しかし製陶技術に満足できず天草を去り、平戸領佐世保村西方寺の世話で早岐

村薬王寺の寺男として潜入し、三川内焼技術の秘法を習得せんとするが、三川内皿山

代官の他国者取り締まりの強化で是非なく三川内を去る。

 

そして佐々東光寺の骨折りで市の瀬窯の福本仁左エ門窯で白磁製作技法の修業に

努める。しかし文化四年(一八〇七)突如として民吉は妻子を残して瀬戸に帰国し、

瀬戸の陶業を隆盛させた。その功績により死後瀬戸の窯神に祀られたという物語が

大筋である。

 

現在市の瀬窯跡の山頂には「加藤民吉修業地」と記された大石碑が建立されてい

るが、何か住民にとって一抹の悲哀を感じさせるものであろう。

 

第十一章 平戸古窯の窯室規模

 

肥前古窯の黒体規模の時代的変遷については、諌早市教育委員会秀島貞康氏、

九州陶磁文化館大橋康二氏、佐世保市博物館島瀬美術センター久村貞男氏らの報告

がある。

 

一般的に陶器窯は、炊口(胴木間)近くの焼成室と窯尻の規模はあまり変化はな

く、幅よりも奥行の長い縦長形で、磁器窯への移行に伴い正方形を経て、炊口から

窯尻までが扇形に拡張する傾向が強く、幅より奥行の短かい横長形へと変遷してい

くと指摘されている。

 

焼成室幅とは中央附近の床面、奥行とは火床部分を含めて前壁から後壁までの床

の長さを計測した平均値である。

左表は平戸古窯の焼成室幅と奥行の平均値一覧表である。


 

平戸古窯跡名一覧表

地 域

 

名所在地

平 戸 地 域

@中野窯

 (平戸市山中町紙漉)

 

A鶴ヶ峰窯

 (平戸市岩ノ上町)

三川内 地 域

B長葉山窯

 (佐世保市三川内町前田多々良)

 

C三川内下窯

 (佐世保市三川内町一之間 )

 

D古ノ田奥窯(よしんた)

 (佐世保市三川内町一之間)

 

E神林窯

 (佐世保市三川内町神林)

 

F吉谷窯

 (佐世保市三川内町小谷)

 

G杉林窯

 (佐世保市三川内町杉林)

 

H潜石窯(くぐりいし)

 (佐世保市三川内町潜石)

 

I三」川内 西窯

 (佐世保市三川内町町中通)

 

J三川内 東窯

 (佐世保市三川内町金剛辻板谷)

 

K山の神窯

 (佐世保市三川内町金剛辻板谷)

 

L上面千東窯(かみりようせん)

 (佐世保市三川内町上両千)

 

M上面千両窯

 (佐世保市三川内町上両千)

牛 石 地 域

N牛 石 窯

 (佐世保市新行江町牛石)

江 永 地 域

O江永古窯

 (佐世保市江永町横谷)

 

P江永東窯

 (佐世保市江永町出□谷)

 

L江永西窯

 (佐世保市江永町江永口)

木 原 地 域

R庵の横窯

 (佐世保市木原町地蔵平)

 

S庵の前窯

 (佐世保市木原町皿山)

 

S地蔵平西窯

 (佐世保市木原町地蔵平)

 

S地蔵平東窯

 (佐世保市木原町地蔵平)

 

S木原西窯

 (佐世保市木原町釜ノ谷)

 

S木原谷窯

 (佐世保市木原町釜ノ谷)

 

N木原下窯

 (佐世保市木原町釜ノ谷)

 

S木原東窯

 (佐世保市木原町観音平)

 

S柳の本窯

 (佐世保布木原町大通)

 

S葭の本窯

 (佐世保市木原町吉野元)

日 手 地 域

S藤 原 窯

 (佐世保市黒髪町藤原)

早 岐 地 域

S広 田 窯

 (佐世保市広田町大手)

北松浦 地 域

S佐々市ノ瀬窯

 (北松浦郡佐々町市ノ瀬)